国難・大津事件 伊勢雅臣

中国人船長を国内法を無視して釈放してしまった事件に関して、大津事件が思い起こされている。来日中のロシア皇太子を襲った凶漢に対して、政府はロシアを怖れて、死罪を求めるが、国内法を守って、それに待ったをかけたのが大審院(最高の司法裁判所)院長・児島惟謙(これかた)だった。

■1.ロシア皇太子ニコライ来日■

明治24(1891)年5月8日、ロシア皇太子ニコライを乗せた軍艦アゾヴァ号(6,000t)が、ナヒモフ号(8,524t)、モノマフ号(5,593t)を従えて、鹿児島湾に入ってきた。いずれも厚い甲鉄に覆われ、多くの砲を装備している。町の者たちは、今まで見たこともない巨大な軍艦に、畏怖に近い印象を受けた。

先導する通報艦・八重山は国産の新鋭艦であったが、わずかに1,609トン、ロシア艦に比べあまりにも貧弱に見えた。

ニコライはシベリア鉄道の起工式に、皇帝の名代として臨席するため、インドからウラジオストクに赴く途上であった。おりしも我が国ではシベリア鉄道の敷設は、ロシアの極東侵略の準備であるとの危機感が募っていた。さらに幕末にロシア艦が樺太、択捉島、北海道の利尻島を襲って、番人を拉致したり、放火、略奪をほしいままにした暴挙は、ロシアに対する恐怖として根強く残っていた。

やがてロシア皇帝となり、独裁的な権力を持つ皇太子ニコライを日本に招聘し、好感を抱かせることは、わが国の安全にとって極めて有効だと政府は判断し、今回の訪問が実現したのである。

■2.武力誇示と軍事偵察?■

鹿児島に寄港した3隻と、さらに神戸に直行した4隻と、都合7隻もの新鋭軍艦からなる大艦隊を率いた皇太子ニコライの来日は、日本に対する武力誇示であるとか、軍事偵察のためではないかという憶測がしきりに流さた。

この憶測は駐日ロシア公使シェービッチの傲岸な要求によってさらに強められた。外国の軍艦が入港できる港は条約によって制限されていたが、シェービッチは皇太子一行の軍艦がどの港にも入れるよう青木外務大臣に要求した。これを青木が拒否すると、激怒したシェービッチは、あくまでも日本政府が許可しない場合には砲撃による武力行使も辞さないと威嚇した。軍事力、経済力ともはるかに劣る日本は、この強硬な態度に屈して要求をのんだ。

しかし明治天皇は、両国親睦のためにもニコライを最上級の歓待でむかえるべきだと考えられ、政府も国賓として歓迎する準備を進めた。

■3.心のこもった歓迎■

一方のニコライは日本に行けることを楽しみにしていた。そのために他の国々に滞在する日数は短いのに、日本のみは30日以上も滞在することになった。

これは叔父のアレキシス大公が明治6年ごろ訪日し、帰国後は皇太子に対しても常々「東洋の日本国へ遊ばれよ。その風俗といい人情といい君民の一致和合せる世界無比の楽園なり」と勧めていたからであるという。

皇太子ニコライを乗せた艦隊は4月27日長崎に着くと、5月8日に鹿児島湾に立ち寄った後、5月9日神戸港に到着。一行は、翌日陸路、京都に向かった。各地での盛大な歓迎ぶりは、叔父の言葉を裏切らないものであった。

京都では皇太子に夜景を楽しんでもらうため、東山如意ケ嶽と衣笠山の山腹に「大」という火の文字を浮かび上がらせた。皇太子は眼を輝かせて、接伴委員長の有栖川宮に、「心のこもった歓迎に感謝します」と言った。

■4.一同の顔から血の気が引いた■

事件は5月11日午後1時30分過ぎに起こった。ニコライは京都から、大津に出て、琵琶湖を周遊した帰りであった。皇太子を乗せた人力車が通ると、挙手をしていた巡査が、急にその手をおろして、サーベルを抜き、ニコライに斬りかかった。

巡査はすぐに取り押さえられたが、ニコライは頭部を斬られ、激しい出血が右の瞼から頬を濡らした。逮捕された犯人の津田三蔵巡査は、ロシアの強圧的な態度を不快に思っており、皇太子に一太刀を加えて、「彼ノ心ヲ寒カラシメントセリ」と動機を述べている。

事件の報は、1時間後には明治天皇のもとに届き、ただちに政府要人を集めて御前会議が開かれた。現地からの電報が紹介されると、一同の顔から血の気が引いた。

ロシア側が怒って宣戦布告することも予想される。そうなれば日本に勝ち目はなく、属国か、植民地にされてしまうであろう。現在、神戸港に停泊中の7隻の艦隊だけでも、大阪や東京を砲撃して、火の海にできるのである。あるいは、賠償として千島などの領土を要求してくるかもしれない。天皇は、自ら陳謝を兼ねて、おもだった大臣らとともにニコライに見舞いに行く、と異例の決心をされた。

当時、近衛師団の少尉であった石光真清の自伝によれば、「われわれは腰を抜かさんばかりに驚」き、部下に営内待機を命ずると、「下士官二人はガタガタふるえ出して、復命も出来ずに歯をかちかちと噛み鳴らすだけであった。」「陸軍6箇師団、海軍は殆ど無いに等しい」日本の軍備は、ロシアから見れば、「七五三のお祝いに軍服を着た」幼児のようにしか見えないに違いない、と記している。

■5.ロシアの怒り■

ニコライは、京都のホテルでロシア人医師に手当を受けていた。天皇から差し遣わされた二人のお見舞い医が到着しても、ロシア側は診察させなかった。また東京から駆けつけた青木外務大臣、西郷内務大臣がニコライに謝罪し、お見舞いの言葉を述べようとしたが、ロシア側に面会謝絶と突っぱねられた。明治天皇が数回、ロシア皇帝に状況報告の電報を打たれていたが、まだ返事がなかった。ロシア側の不気味な沈黙が続いていた。

翌朝午前6時半に新橋停車場を出発した列車は約15時間後、午後9時15分に京都に着いた。天皇の顔は煤煙ですすけ、心労と疲労でひどくやつれて見えた。

翌朝、天皇はニコライを見舞われ、「ご健康が旧に復せられたら、東京その他を御巡覧なされることを切に希望します」と述べられた。ニコライは、天皇の見舞いに感謝しつつも、「東京に行くかどうかは、本国の父皇帝の指示に従います」と答えた。皇太子が旅を中断してしまえば、ロシアとの国交は危機を迎える。天皇の顔が一瞬こわばり、激しい落胆の様子が窺えた。

お見舞いの後、ロシア皇帝からの初めての電報がもたらされた。大事に至らなかった事を喜び、「陛下がこのことにつき色々ご配慮下さったことを感謝いたします」と、明治天皇の誠意に満ちた配慮を十分汲み取った内容であった。

国民の間では、天皇にならって自分たちもお見舞いをせねば、という機運が全国的に広まり、学校は謹慎の意を表して休校となり、神社、寺院、教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。見舞電報は一万通を越え、見舞い品も長持ち16棹に達した。

■6.天皇、政府、国民の誠意通ずる■

皇太子ニコライは、東京に行きたいとの希望を訴え、皇帝も一度はそれを許したが、シェービッチ公使の強硬な反対で、皇后を動かし、3日後に日本を離れるよう命令が下った。

天皇はお別れに神戸のご用邸で午餐を差し上げたいと招待し、皇太子も喜んで応じようとしたが、医者とシェービッチ公使が一致して反対した。そこで皇太子は、逆に天皇をアゾヴァ号での午餐にお招きした。

これはロシア側が天皇を拉致しようとする陰謀かもしれない、という恐れから、侍従達は反対したが、天皇は招待を受け入れられた。明治天皇を迎えた皇太子の態度には、人格に強く魅せられて、あたかも敬愛する師に対するような敬意の念が現れていた。

ロシアの外務大臣ギールスは、事件発生直後は激怒して日本政府を責める言葉を繰り返していたが、日本の天皇、政府、国民の誠意溢れる態度に皇帝も皇后も十分満足しているので、この事件についての賠償は一切要求しないとの意向を伝えた。

午餐の後、午後2時に天皇がボートでアゾヴァ号を離れられると、ロシア艦隊はあわただしく出港準備を始め、夕刻、神戸港を発って、ウラジオストックに向かった。

■7.途方もない重大な事柄が起こるかも知れず■

犯人・津田三蔵をどう処罰するかも、重大な問題であった。内閣としては、津田を極刑にして、ロシア皇帝、国民を納得させる必要があると判断した。しかし外国の王族に危害を加えた場合の国内法はなく、一般人に対する謀殺未遂をそのまま適用すれば、最高でも無期懲役である。

ロシア公使シェーヴィチにこれを説明すると、たちまち顔色を変えて、こう恫喝した。

終身刑というなら、それでもよろしい。ただし、わがロシアと日本の間になにか途方もない重大な事柄が起こるかも知れず、それは覚悟して欲しい。

いっそのこと、ロシアがよくやっているように、刺客を使って津田三蔵を暗殺させては、と提案した大臣までいたが、元老・伊藤博文は、怒声に近い声で「いやしくもわが国は法治国家であり、そのような無法は許されぬ。」といさめた。

■8.法律は国家の精神■

山田司法大臣は、刑法116条「天皇、三后(太皇太后、皇太后、皇后)、皇太子ニ対シ危害ヲ加へ、又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」をロシア皇太子にも適用すれば、死刑にできると考えた。

しかし、これに待ったをかけたのが、大審院(最高の司法裁判所)院長・児島惟謙(これかた)であった。116条は、国家統合の中心たる皇室に危害を与えることは国家の安寧と秩序を害することであるから特別に設けられているのであり、条文上も明らかに、外国の皇族に適用することは不当である、と判断した。

松方総理は、児島を呼び、悲痛な声で「なんとしても、津田三蔵を死刑にしなければならないのだ」と言った。児島はこう答えた。

私個人の感情としては、津田三蔵のような人物は、国家の大罪人として八つ裂きにしてもまだ足りないほどに思っております。ただし、法律は国家の精神です。いかなることがありましょうとも、これを断固としてまもることが、国に対する忠義であります。

児島の念頭にあったのは、条約改正問題であった。幕末に諸外国と結ばれた条約は著しく日本に不利で、たとえば外人が日本国内で罪を犯しても、日本には裁判権がなかった。これは日本の法治制度が十分発達していない野蛮国だとの判断が欧米諸国にあったからである。

今回の事件で安易に法を曲げるようなことをすれば、「刑法ヲ犯シ又憲法ヲ破壊スル」ものであり、わが「司法権ノ信用厳正ヲ失墜スルモノ」となる。各国は「益々(ますます)軽蔑侮蔑ノ念増長シテ、動(やや)モスレバ非理不法ノ要求」をつきつけてくることも要求される、と児島は総理、司法大臣あての意見書で主張した。

津田を死刑にせねばロシアと戦争になるかも知れず、法を曲げて死刑にすれば、それを口実に欧米諸国はいつまでも条約改正に応じないだろう。内閣は窮地に陥った。

■9.注意シテ速カニ処分スベシ■

内閣全体に一人反対してあくまでも憲政を護ろうとする児島を勇気づけたのは、明治天皇から直接賜った勅語「今般露国皇太子ニ関スル事件ハ国家ノ大事ナリ 注意シテ速カニ処分スベシ」であった。「注意シテ」とは、法律の適用を誤って国家の恥としてはならない、との意味であると児島は受け止めた。

内閣としては、戒厳令を発して法律に縛られない処置をとる、という非常手段もあったのだが、このような勅語が出された以上、それも不可能でった。津田の裁判を担当した7人の判事は、内閣の必死の説得にも関わらず、児島に賛同し、116条適用を不当として、全員一致で無期懲役の判決を下した。

日本政府はロシア駐在の西公使を通じて、外務大臣ギールスに判決の説明をした。ギールスは憤りの色を眼にうかべて「はなはだ不快であるのは、わが皇太子に危害を加えた者を、一般人に危害を加えた者と同じ処分をしたことにある」と言った。

西は、日本政府は最大限の努力をしたが、法律の限界であることを理解して欲しいと述べた。ギールスはロシア皇帝に上奏し、皇帝は「これも日本の法律にもとづくものであるから、なにも言うことはない、しかし今回の結果は日本の利益にはなっていない」と答えた。

日ロ関係は将来の波乱をはらみつつも、この事件はひとまずの決着を見た。明治天皇と政府・国民の君民一体となった皇太子へのお見舞いと、勅語を支えに法治の精神を護った児島惟謙以下の司法官らの見識とで、この明治最大の国難をなんとか乗り切ることができたのである。

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