七言古詩「「垓下の歌」と英雄・項羽  古沢襄

「時をこえるうた 漢詩」(国土社)に有名な「垓下(がいか)の歌」が収録されている。

漢詩を横書きするのは、気がすすまないが、漢の司馬遷(しばせん)の「史記」「項羽本紀」にある「垓下の歌」をまず漢文で詠んでみる。

力拔山 兮 氣蓋世(力は山を抜き 気は世を蓋ふ)
時不利 兮 騅不逝(時 利あらず 騅 逝かず)
騅不逝 兮 可奈何(騅の逝かざる 奈何すべき)
虞兮虞 兮 奈若何(虞や 虞や若を奈何せん)

慶応大学の八木章好教授は、次のように分かりやすい日本文にしている。

わたしの力は山をも引き抜き 気はこの世をおおいつくすほど
ああ しかし時運はわたしに味方せず 騅(愛馬 すい)も進もうとしない
騅が進もうとしないのを いったいどうしたらよいのだ
ああ 愛する虞(愛姫 ぐ)よ 虞よ おまえをどうしたらよいのだ

この七言古詩には「兮(けい)」という間投詞が刻み込まれている。剣をとって最期の舞いをした項羽は「兮」と言葉を発しながら、虞姫をこの世に残して最期の出陣をせねばならぬ”恨み”を即興詩の「虞兮虞 兮
奈若何」で歌いおさめにしている。

虞姫も剣をとって舞い、舞いつつ項羽の即興詩を繰り返し歌って応えたという。その夜、項羽軍は一陣の風となって、囲みを破り、長江のほとりまで達した。

史記・項羽本紀に「天の我を亡ぼさんとするに、我なんぞ(烏江を)渡らんか」(天之亡我、我何渡爲)という項羽の言葉が出てくる。大河を渡れば江南の地に戻れる。船頭の薦めに対して「この烏江を渡って北にむかった江南の八千の子弟はすべて死に、ひとりとして帰る者はない。わしには江南の父兄にまみえる面目がない」と言って馬首を返して、敵陣に斬り込んで壮烈な死を遂げている。紀元前202年のことである。

この挿話に心惹かれるものがある。「項羽と虞美人草の伝説」「虞美人草の伝説」などの物語を書いてきた。

■項羽と虞美人草の伝説 古沢襄

中国の歴史物語で心を惹かれるのは楚人・項羽の生き様である。司馬遼太郎は北方の中原(黄河流域)の人は騎馬民族との混血のせいもあるだろうが、長身の者が多い。江南(揚子江以南)の人は圧倒的に矮人(ちび)が多く、顔はまるく、二重まぶたで、北の漢人と風俗が異なると言った。

この揚子江以南は豊かな水に恵まれ、温暖多雨で水田の稲作が早くから行われている。この米食民族が春秋戦国時代(紀元前770から同221)に楚、呉、越の3つの国に分かれて割拠している。最後には楚が残ったが、紀元前223年に西方の秦によって滅ぼされている。

楚人のルーツは南方のタイなどの東南アジアにあるのではないか。この江南の人たちと南日本の九州などの人たちは剽悍な戦士の性格が似ている。感情が豊かで、激情家が多い。DNA鑑定で江南の人たちと南日本の古代人たちは一致する結果が出ている。

山口県下関市の日本海側にある土井ヶ浜遺跡の海浜から弥生時代の300体以上の人骨群が発見された。出土人骨の抜歯習俗からは、少なくとも三種類の手法があるから、すべてが同一種族のものではないと考えられている。

しかし人骨の特徴が縄文人とはあきらかに異なるために、中国江南人の渡来モデルとして注目されてきた。この学術論争は続いているが、日本に稲作を伝えた弥生式文化は江南からの渡来民だったのではないか。

鉄器を持っていたから、石器しかない縄文人を征服するには少数で足りる。日本人のDNAは北方系が多いのだが、少ない南方系の渡来人が原日本人と同化を繰り返しながら、九州から近畿に勢力圏を広げていったのではないかと思う。

それは専門家に任せるとして、楚人・項羽に惹かれるのは、項羽の中に日本人と同じ心情を見るからでなかろうか。潔さと言って良い。政略を好んだ劉邦とは性格が違う。

史記・項羽本紀に「天の我を亡ぼさんとするに、我なんぞ(烏江を)渡らんか」(天之亡我、我何渡爲)という項羽の言葉が出てくる。常勝将軍だった項羽は劉邦の策の前に敗れたが、漢の大軍を突破して烏江のほとりに来た時には従う兵は28騎になっていた。

烏江を渡れば江南の地に戻れる。そこで再起を図ることが可能だが、船頭の薦めに対して「この烏江を渡って北にむかった江南の八千の子弟はすべて死に、ひとりとして帰る者はない。わしには江南の父兄にまみえる面目がない」と言って馬首を返して、敵陣に斬り込んで壮烈な死を遂げている。

烏江のほとりに立ったのは、故郷に別れを告げるためだったろう。「天之亡我、我何渡爲」からは、惜別の心が伝わってくる。潔さを尊ぶ日本の武家に伝わる心情と似ている。

■虞美人草の伝説 古沢襄

虞美人草(ぐびじんそう)・・・ヒナゲシの別名で、夏目漱石の小説の題名としても知られるが、私は司馬遼太郎の小説「項羽と劉邦」にでてくる項羽の愛人・虞姫にまつわる虞美人草の物語に心惹かれる。

歴史年表をみると項羽が生きたのは紀元前232年から紀元前202年。日本はまだ縄文の闇の中にあった。項羽も劉邦も楚人だったという。司馬遼太郎の旅行記に「中国・江南のみち」がある。

長江沿岸で稲作社会を発展させた楚人が、中原の漢民族一般の論理的性格とはちがい、激越で怨みっぽく、情念が屈折し、修辞が華麗で屈折し、さらには復讐心もつよいという印象を史書のなかでうかがうことができる・・・と司馬遼太郎はいう。

さらには、近代になっても楚の故地である湖南省の人は、その性格が激しいとよくいわれる。革命家のなかで湖南省出身が多いのだが、毛沢東などはその代表的人物であろう。湖錦濤も江南の江蘇省の生まれである。

支那史の中で江南は異国の扱いをうけてきた。古代支那では漢民族が住む中原こそが中心であって、背が低くタイなど南方系の血脈である楚人は、たとえば秦帝国からみれば、楚人は辺境の蛮族に過ぎない。楚人のことを漢人は”荊蛮”と称して卑しんだ。

だがこの辺境こそ支那大陸の中で、もっとも豊かな稔りに恵まれた米作地帯であった。これに対して中原は麦・粟地帯。現代の日本人をDNA鑑定すると、北方系のブリヤート人と一致するものが多いが、次いで中国の江南の人と一致するものがでるという。

九州の人のDNAは中国南部に近いというが、陽気で熱しやすい性格は楚人と似ている。楚人は戦に強かったが、戦時中の九州の師団は勇猛さで知られている。現在でも防衛大学校の進学率は九州が圧倒的に多いのではなかろうか。

項羽は楚人の中でも、ひときわ目立つ楚人であった。楚人らしかぬ背が高い威丈夫だったから、項羽が楚軍をひきいると軍勢は奮い立ち、無類の強さを発揮した。敵には容赦せぬ残酷さをみせるが、味方には尽きせぬ情愛をみせる。

その項羽が生涯に愛した美姫が虞美人。北方の斉(せい)との戦いに向かう路傍でうずくまっていた少女の瞳が空の色のように青かったという。今の山東省あたりだが、項羽は「胡女か」と訊ねた。

胡女かとは胡人の娘かという意味。”胡”は支那では異民族の総称である。荊蛮の項羽が虞姫を胡女かと聞く可笑しさがあるが、瞳の青さから西域人を想像したのかもしれない。この時代には、胡とは匈奴を指しているから、むしろ古代トルコ民族のエキゾチックな風貌が項羽の心を捕らえたともいえる。虞姫は十四歳。

項羽には正室がいない。戦に明け暮れていたから戦に連れ添った虞姫しか愛さなかった。「垓下の戦い」で常勝将軍だった項羽は劉邦の策の前に敗れるのだが、死を覚悟した項羽は、別れの宴で「力は山を抜き 気は世を覆う 時に利あらずして 騅(愛馬)逝かず 騅逝かざるを奈何すべき 虞や虞や若(なんじ)を奈何せん」とうたいおさめた。(力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝.騅不逝兮可奈何,虞兮虞兮奈若何!)

この詩には「兮(けい)」という間投詞が刻み込まれている。項羽は「兮」と言葉を発しながら、虞姫をこの世に残して最期の出陣をせねばならぬ”恨み”を「虞兮虞兮奈若何!」でうたった。

項羽のうたいおさめが終わると、虞姫は剣をとって舞い、舞いつつ項羽の即興詩を繰り返し歌って応えた。司馬遼太郎は「虞姫が舞いおさめると項羽は虞姫を刺し、一陣のつむじ風となって敵軍の中に突っ込んだ」としている。別に、北宋代からは虞姫の自刃説も伝わっている。

虞姫は葬られたが、翌夏、墓に赤い花が咲いた。虞美人草の伝説が、ここから始まっている。

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