東北亀田藩で名君を育てた幸村の娘  古澤襄

大阪冬の陣・夏の陣で徳川家康の心胆を寒からしめた真田幸村の活躍が目覚ましかったから、源義経と並んで現代でも人気がある。

だが、幸村の実像を伝える確実な史料は少ない。むしろ講談の主人公として広く有名になった面がある。たしかに幸村は戦国大名でもなければ、高野山下九度山村で長い浪人生活の末、大阪城に招かれた一人の傭兵隊長に過ぎなかった。

しかし戦場での幸村は卓越した武将として名を残している。しかも最後の合戦で真田隊はひとつの火の玉となって、家康の本陣に迫って「真田左衛門佐、合戦場において討死、古今これなき大手柄(細川忠興)」とうたわれた。

真田の城がある信州上田で旧制中学の四年間を過ごした私のとって幸村は郷土の誇りだった。その幸村にお田の方という遺児がいたと知ったのは、数年前のことである。

お田の方は幸村と隆清院との間に生まれた女性。隆清院の母は一の台といって、豊臣秀次の継室。右大臣・菊亭大納言晴季の娘である。

一の台は悲劇の女性だった。淀君の間に秀頼が生まれた秀吉は、我が子可愛さのあまり、秀次を疎んで高野山に追放し、切腹を命じた。そのうえ秀次の家族や女人らを三条河原に引き出し処刑している。処刑者は秀次の遺児(4男1女)と正室・側室・侍女ら39名に及んだ。その中にお田の方の祖母・一の台もいた。

隆清院は処刑を免れたが、仏門に入って秀次と一の台の菩提を弔っている。やがて幸村と結ばれて一子・お田の方が生まれた。

大阪夏の陣で幸村が討死すると、徳川方は隆清院とお田の方を捕縛した。このことを知った幸村の兄・真田信之は家康に二人の助命嘆願をして認められた。

十五、六歳の少女だったお田の方は、幸村の娘として気高く、気品を備えていたという。むしろ菊亭大納言晴季の血筋と言った方がよいのかもしれない。

この菊亭大納言晴季という公卿は、秀吉の関白任官を持ちかけ、朝廷における斡旋、調停役を務めて、朝廷内で重きをなしている。秀吉没後、右大臣に還補されたが、元和三年(1617)に死去、享年七十九歳。

信州・真田氏との関係は諸説があるが、真田信之・幸村兄弟の母は菊亭大納言晴季の娘とされている(寒松院殿御事跡稿)。幸村が隆清院と結ばれ、徳川方に捕縛された隆清院とお田の方の助命嘆願を
信之が申し出た背景には、菊亭大納言晴季と真田家に関係があったとみた方がいい。

孤児となったお田の方を兄の信之が哀れみ、手元に引き取って育てている。後にお田の方は江戸城大奥に仕えている。

この話には、さらに思わぬ展開をみせる。

二十二日の杜父魚ブログで「家康に消された戦国大名・多賀谷氏の痕跡  古澤襄」を書いたのだが、多賀谷氏の滅亡によって佐竹義宣の弟・多賀谷宣家は、多賀谷姓を捨てて佐竹宣家に戻り、さらに名も宣隆と改めている。居城の桧山城も破却され、ひたすら家康を恐れる日々を送った。

宣家は桧山城趾に西側にある茶臼山に籠もり、正妻の多賀谷重経の次女と離別して、家康にひたすら恭順の意を表する。しかし家康は常総の太守だった佐竹一族に対する警戒の手を緩めない。佐竹領内に間者を送り込み、佐竹の動きを監視する。

そんな宣隆が伏見城でお田の方と運命的な出会いをしている。寛永三年(1626)佐竹義宣に従って上洛した宣隆は、給仕にでたお田の方を見そめ後妻に迎えた。お田の方は二十歳にもなっていなかったという。この時、宣隆は四十三歳、親子ほど違う年齢の差がある。

この話は出来すぎている。事実は佐竹の動きを内部から監視するために、真田信之が家康にはかって
お田の方を送り込んだのではないか。宣隆は寛文十一年(1672)に没したが、お田の方との間に
一子・重隆を残している。

この重隆は東北の亀田藩主・岩城重隆となるのだが、お田の方の子の重隆に対する訓育に厳しく、書や礼儀作法、武芸に至るまで自らの手で教えている。数奇の運命に弄ばれたお田の方だったが、最後には名君といわれた岩城重隆の母として”賢母”の名を残した。

宣隆の死後、顕性院と称したお田の方は、亀田に顕性山妙慶寺を建立している。重隆は亀田藩の藩政で新田開発や城下町の整備などで功績があって「月峰公」と呼ばれている。

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