常陸国下妻の歴史は多賀谷氏のことを除いては語ることは出来ない・・・「多賀谷氏の史的考察」(昭和52年 崙書房)の著者・古澤一朗氏が言っていた。
常陸国下妻城主だった多賀谷氏については、郷土の一部の研究者以外には、あまり理解されていないようである。歴史の専門家でも、多賀谷氏の存在を過小評価したり、誤解している場合が少なくない。(同書のまえがき)
十数年前、澤内古澤家のルーツを追って、ようやく下妻市古澤の地名を探し当て、市の教育委員会を訪れた。教育委員会には一人や二人は、郷土史に詳しい人がいる。私はルーツ探しで壁にぶち当たると教育委員会を訪れることにしている。江戸時代の姓は、ほとんどが地名に由来している。
私の相手をしてくれた人は「それなら鬼怒川対岸の八千代町の教育委員会に行ってみなさい。古澤のルーツは八千代町川尻にある筈です」と教えてくれた。
そこで八千代町の教育委員会に行ったら、地方史研究家の古澤一朗氏のことを教えて貰い、同姓の一朗氏との交友が始まった。一朗氏は私と同年だから81歳になった筈である。当時から病気がちだった一朗氏だったが、健在であろうか。この三、四年、一朗氏との音信が途絶えたままなので、気になりながら、うち過ぎてきた。下妻第二高校で教鞭をとった一朗氏だったから、杜父魚ブログを読んだ教え子たちから、いくつかのメールを頂戴している。
八千代町川尻に赤松山不動院があるが、ここには何度も訪れた。赤松家の氏寺である赤松山不動院には九曜の家紋が刻まれた赤松宗家の墓所を囲むように赤松家や古澤家の墓が林立していた。宗家から枝別れした一族の墓なのだが、その中に澤内古澤家と同じ「丸に蔦」家紋がつく江戸時代の墓がいくつかある。
この地の土豪だった赤松氏は、多賀谷氏に臣従し、赤松美濃守常範が元亀二年(1571)に下妻城を囲んだ後北条勢を下妻庄古澤の湿地帯で迎え討ち撃破している。常範の勇名は世に轟いた。世人は「赤松ガ左文字ノ刀フリケレバ、皆クレナイニ、古澤ノ水」と囃し立て立てている。
この軍功によって城主の多賀谷政経は常範に下妻庄古澤を与え、常範は姓を古澤常範と改めた。多賀谷氏が滅亡した後には、古澤姓を赤松姓に戻した家もある。
ルーツ探しはそれとして、私も一朗氏に触発されて、多賀谷大名の歴史資料を集めて久しい。たが、一世紀半にわたって発展した茨城県下妻市から有力な史料を得るのは困難を極めた。むしろ秋田県能代市桧山に足跡が残されている「北条佐竹御対陣先手多賀谷一手之備図」など佐竹藩史料からこの常総の戦国大名の大要を知ることが出来る。
下妻多賀谷氏は十五世紀中頃に下妻城を構えて発展を遂げてた。常総の太守だった佐竹氏と二重三重の姻戚関係を結び、佐竹与力として頭角を現した。太閤秀吉が多賀谷に「多賀谷の人数は如何」と下問した時には「五軍合わせて地戦千騎」と答える規模になっている。
多賀谷軍団の特色は鉄砲隊の整備がずば抜けて進んでいたことにある。「国典類抄」では多賀谷鉄砲隊は千挺とある。関東の結城氏が三百挺、下館水谷氏が二百挺、真壁氏が二百挺に比してその規模と破壊力が大きい。佐竹氏も千挺の鉄砲隊を擁しているから、佐竹・多賀谷連合軍の戦力は、他の戦国大名を圧倒している。
しかし佐竹、多賀谷大名は、慶長五年(1600)の関ヶ原の決戦で西軍の石田三成に加担して、徳川家康から疎まれ、佐竹は常陸五十四万五千石から出羽国秋田地方の二十万五千八百石に落とされ、追放(転封)を命じられた。
多賀谷はもっと厳しい沙汰、取りつぶし(改易)の目にあって、下妻城は破却された。最後の城主となった多賀谷重経が鉄砲隊に命じて家康を狙ったことが咎められ、死罪は免れたが追放された。下妻城では前途を悲観した婦女子が堀に身を投じたり、焼身自殺をしたものも少なくなかったと伝えられている。下妻市小野子に美女塚が現存している。
江戸幕府は多賀谷大名の痕跡を徹底的に消そうとしている。だから茨城県下妻市から有力な史料を得るのは困難となった事情がある。それだけ多賀谷氏の存在を警戒したといえよう。
多賀谷重経には七人の子がいたが、長女は佐竹義宣の正妻。次女は佐竹義重(義宣の父)の四男・宣家を養子に迎えている。二重三重の佐竹家との政略結婚だったが、多賀谷氏の滅亡で、宣家は佐竹家に帰参して慶長七年(1602)に出羽国桧山(能代市)の桧山城に入った。
全国を流浪していた多賀谷重経は桧山城に現れ、次女と涙の出会いをしているが、一夜で姿を消した。長女のところには遠慮して訪れなかった。しかし、家康の多賀谷に対する追及は長女や次女にも及んでいる。徳川幕府を恐れた佐竹義宣は正妻の長女を離別し、宣家もまた次女を離別して、家康に忠誠を誓っている。さらに家康の追及は激しい。一国一城令を発して、桧山城も破却している。
これによって下妻城から多賀谷宣家に随行した四十人の家臣たちは禄を離れて土着を余儀なくされている。次女は能代市外の曹洞宗・多宝院に籠もって、多賀谷一族の菩提を弔う日々を送った。多宝院には多賀谷重経像が寺宝として残っている。