趙紫陽著、『趙紫陽極秘回想録』 宮崎正弘

幽閉時代の十六年間、趙紫陽は何を考えていたのか。守旧派のとの熾烈な権力闘争になぜ敗れたのかが了解できる。

「天安門事件」で学生への対策が生ぬるいとして長老達から糾弾され、突如、失脚させられた趙紫陽・総書記は世界のマスコミ、民主派の学生、知識人からいまも名声が高い。

過大評価のきらいさえある。葬儀には出身地の河南省から数千の庶民が集まり、北京の斎場を遠巻きにした。
あのとき趙紫陽が権力闘争で積極的に守旧派を追い込み、ぼんくらの代表格だった李鵬などを追い落としておけば、中国の民主化は間違いなく達成されていたという夢の物語が語り継がれる。

私見をさきに述べておけば中国の民主化は幻像でしかない。

ともかく失脚してからの趙紫陽は十六年間にわたって北京の自宅に幽閉され、外部へは一切の動静が伝えられず、まるで「現代版・張学良」のごとしだった。だが、そうは言っても政治的失脚のなかでは座敷牢に押しこめられたわけでもなく広東へしばしば旅行したり、来客もあり、ときに大好きなゴルフへ出かけている。かなりのびやかな幽閉である。

総書記時代のセキュリティ・サービス要員らが、そのまま趙紫陽の監視員となり、二十四時間、三百六十五日x16年間、いったい何の目的か具体的には分からないままに動静を見張った。

ところが趙紫陽は監視の目を盗んで回想録を膨大なデータと共に録音していた。それは孫たちの玩具箱などに印をつけて隠匿され、信用できる友人等を通じて香港へ持ち出され、あるいは米国へ持ち出された。

▲本書は英訳のほうが原文という魔か不可思議な書物である

本書は英訳版からの翻訳で、中国の翻訳もでた。不思議である。趙紫陽は中国語で吹き込んだのに? 

つまり趙紫陽ブレーンや理解者らはアメリカで先に英語にして、その中国語訳(もともと吹き込みだから原文はない)を逆輸入させると効果的であることを知っていた。従って英語の現代は「国家の虜囚」(PRISONER OF THE STATE)である。NYの老舗名門出版社サイモン&シェスター社から2009年に出版された。

本書を手にとって、そのボリュームをみて読み終えるには二日はかかりそうだと踏んだ。

そこで鹿児島へ行く旅行鞄へいれて、飛行機、汽車、バスの中、そして宿舎で読み継いだが、三日間では読み終わらず、四日目。羽田からモノレールの帰路、ようやく読了した。

なぜなら一行一行に歴史の回想場面の印象的なコマが割り込んできて、あの天安門事件前後の中国の情景が、ひとびとの心境や政治の空気が行間にぎっしりと埋め込まれていてとばし読みが出来ないからだった。

本書の一番面白い意義とは中南海の権力闘争の実態である。

趙紫陽は最初のころ、堅物の社会主義者で革命元勲のひとり、陳雲と親しく、トウ小平とは直通の連絡回路がなかった。

趙紫陽は自分の秘書に手紙を託して届けさせたり、有力者を通じて伝言させたりという複雑な通信回路をへて、幹部同士が意思を連絡しあい、しかも最終の決定機関は政治局常務委員会ではなく、トウ小平の自宅でなされたこと。長期的な戦略決定は北戴河の別荘でおこなわれていたことが確認できる。いかに超法規の国!

広東からあがってきたばかりの趙紫陽には、こうした最高幹部間の意思疏通コネクションの要領が飲み込めず、また彼には北京でも友人が少なかった。

胡燿邦とはライバル関係と言われたが、もつれたことはほとんどなく、思想的には二人は通底していたと弁解めいた文章が長々と続く。

ややもすれば弁明が多いと思われるのは『私はその場にいなかった』『私はそのことを知らなかった』「それは後で知らされた」など。逆に言うと権力闘争の渦中にいながら、情報に疎く陰謀をはりめぐらせない素直すぎる性格、あるいは優柔不断。

いや、趙紫陽は河南省出身らしく謀略渦巻く世界には不適当な指導者。むしろ趙紫陽は理論的テクノクラートだったのである(河南省人の性格に関しては拙著『出身地で分かる中国人』(PHP新書参照)。

▲趙紫陽は決断力にかけ、優柔不断さが逆に改革を日干しにしたのでは?

そして彼の優柔不断が災いして『改革派』の胡啓立も田紀雲も守旧派の讒言と陰謀によって足下を掬われ、李鵬などというぼんくらが主流派を形成してゆくのを許した。

学生デモは「李鵬下台(やめろ)」というプラカードを堂々と掲げていた。当時ジョルダーノ(中国圏ではユニクロより有名)の経営者だったジミー・ライは「李鵬の頭は亀の卵」と言った。直後に彼のチェーン店は放火され、ジミーは「リンゴ日報」の経営に専念するためにジョルダーノを売却せざるを得なかった。

1989年四月の段階で趙紫陽は北朝鮮へ行く。

この間、北京の天安門前広場を中心に学生デモが燃え広がり、座り込みが世界のテレビで報道された。4月26日に人民日報は社説を掲げて民主化に反対した。この社説は趙紫陽の留守を狙って李鵬らが書かせた。

趙紫陽は回想する。「桃依林と李鵬は結託し、なんとかして私に(人民日報の)社説を支持させようと画策した」「トウ小平は自身の強硬発言が知れ渡り、若者達の自分に対するイメージが傷ついたとかんがえ、「若者達を愛する庇護者であるという言葉を必ず演説のなかに入れるよう(娘を通じて)求めてきた」。

趙紫陽は「主流派の支持を得ることが大切だということも強調した。トウ小平は態度を曲げず、このままでは李鵬や桃依林ら党の強硬派の態度を変えさせるのは不可能だった」。

「なんとしてもトウ小平と話して支持を得ようと思った。そこでトウの秘書の王瑞林に電話をかけて、面会を求めたが体調不良を理由に断られた」。

ついで趙紫陽は楊尚昆に連絡して貰おうと楊尚昆の自宅を訪ねたが曖昧な態度だった。

こうして誰と誰が、その日は趙紫陽に賛成し、翌日は態度がかわり、その次の日は曖昧となりといった具合で、中国共産党の最高権力層にしてからが二転三転右往左往していた様子が手に取れる。楊は強硬派の代表のように日本のマスコミが伝えたが、実態は趙紫陽に近い改革派の側面を兼ねていた。

評者(宮崎)はもっと頑迷で暗鬱な権力闘争の場面を想定していたので、もし、この記述が真相に近い実態であったとするなら拍子抜けである。

▲「市場経済」「自由競争」っていったい何だ。

市場経済を導入するにあたっても「自由な経営」と「損益に責任を持つ」という発想を共産党上層部のゲンクンどもに理解させることは並大抵の作業ではなく、そもそも土地を外国企業に貸すことが外国の侵略ではないかと反発する、幼稚で馬鹿げたナショナリズムが存在していた。

社会主義統制経済を、過渡的に一部分一部分と改革を進めるには共産党の上層部の固い頭を解きほぐすという徒労がまっていた。

とくにトウ小平は言った。「三権分立は絶対に受け付けられないし」政治報告書には「議会政治」とか「抑制と均衡」とかの文言を消せと介入してきた。

1987年から二年間総書記にあった趙紫陽を露骨に中傷し反対し妨害したのは李鵬と考えられがちだが、黒幕は陳雲、王震、李先念。そして理論畑のトウ力群という強硬左派をこれら守旧派で頑迷な長老たちが支えていた。

記憶がどろどろした権力闘争の日常を濾過し、自分を軸に回想する特質があるため、ときとして客観的記述が疑わしい場面もあるが、本書が第一級史料であることに間違いはない。

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