大彦命と建沼河別命が会津でめぐり合った 古沢襄

会津の名称について地元の人から「3世紀頃、四道将軍の大彦命が北陸道から、子の建沼河別命が東山道を遠征し、出会ったところが”相津”だった」と聞いたことがある。こういう話には滅法、取り憑かれる私なので古代史に詳しい学者の知見を調べまくった。

古事記や日本書紀のことを「記・紀」というが、蝦夷の土地であった東国について初めて記事が出てくるのは。第十代の崇神天皇の時である。崇神天皇は「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と呼ばれた。実在が疑われている初代の神武天皇と同じ名前。したがって歴史上、実在したはじめての天皇ではないかと言われている。

この崇神天皇には二人の皇子がいた。兄を豊城命(とよきのみこと)といい弟を活目命(いくめのみこと)と言った。皇位を継承するに当たって二人の皇子の”夢占い”をさせて決めたという。

豊城命は「御諸山(みもろやま)に登って、東に向かって八度槍と刀をふるった夢をみた」と答えた。活目命は「御諸山に登って、四方に縄を張り、粟を食べる雀を追い払う夢をみた」と答えたという。御諸山とは大和の三輪山のことである。

この挿話は面白い。崇神天皇は武神である豊城命には東国を治めることとして、活目命に皇位を譲る決定をしている。これが第十一代垂仁天皇の誕生となった。豊城命は関東地方に大きな領地を持って、東北の開拓や蝦夷の平定に活躍した上毛野君(かみつけぬのきみ)や下毛野君(しもつけぬのきみ)の先祖だといわれる。

関東の上野国や下野国の呼称はかなり古い歴史があることになる。

崇神天皇が皇族の中から地方開拓のために四人を選んで「遠きくにの人どもを平定し、もし教(のり)を受けざる者あらば、すなわち兵をあげて伐て」と命じた。これが四道将軍なのだが、日本書紀によれば、崇神天皇は紀元前90年ごろの人ということになっている。弥生時代の中期に当たるから、史実かどうか疑わしい。古事記では三道となっている。

有名な日本武尊(やまとたけるのみこと)は第十二代景行天皇の第三皇子。熊襲(くまそ)を征伐して、東国の平定に向かい、駿河の焼津で野火に焼かれそうになる危難を剣を抜いて草をなぎはらい、賊を討ち取った伝説の人物である。この剣は「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」となって、三種の神器として皇位継承のしるしとなっている。

日本武尊は関東東部の蝦夷を平定して帰途についたが、三十二歳の若さで能褒野(のほの=四日市付近)で病に倒れた。

さて会津の名称になるが、四道将軍の大彦命は高志の道(北陸道)に派遣され、北上して蝦夷の奥地に入っている。東海道には大彦命の子・建沼河別命(たけぬかわわけみこと=武淳川別命ともいう)が派遣され、この親子は会津若松市あたりでめぐり合ったとされている。

会津若松市は約20,000年前の旧石器時代の遺跡である笹山原遺跡、縄文時代の建物跡が発掘された本能原遺跡、弥生時代の墓(再葬墓)が発掘された墓料遺跡、東北を代表する古墳群の一箕古墳群、東北を代表する窯跡群である会津大戸窯がある。

古墳群が発見されたことからいえば、中央との交流がかなり古くからあったことになる。事実、花巻市の熊堂古墳群から発見された副葬品からは「和同開珎(わどうかいちん)」という銅銭が出土している。だが古墳時代が東北に広まったのは、大和朝廷以降のことになる。

この古墳時代も約400年続いたが、百済から伝えられた仏教の伝来で、この習慣が廃れた。中国風の火葬が行われ、大化の改新後「薄葬令(はくそうれい)」が出て、古墳を作る制限、禁止が行われた。公地公民制によって、豪族たちが公民を使って古墳を作ることができなくなった。七世紀以降は中央では古墳がなくなっている。

東北にはまだ中央の威令が浸透していないので、九世紀ごろまでは古墳が作られていた。これらの歴史をみると四道将軍の大彦命と建沼河別命が会津でめぐり合ったというのは、伝説の世界なのではないか。蝦夷が朝廷軍に制圧されるには、まだかなりの歴史と時間が必要である。

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