「沢内年代記」を読み解く(十七)  高橋繁

寛政六年 甲寅(キノエトラ・・・1794年の記録)  
◇新町堰の工事始まる  ◇鳥海山の噴火  ◇横綱谷風の死
①米、農作物の出来具合は中ぐらいの出来。平年作並の出来であった。
②年貢割合は去年より二歩安くなった(「巣郷本」「白木野本」)「下巾本」には「去る丑の年の通り仰せ付けられた」とある。「下巾本」の記録は代官所の側に立った記録が多いことから、あるいは「二歩引き」はなかったかも知れない。
御代官 大里所右エ門、箱石覚右エ門

③御買上米高一石(150kg)につき一斗八升(27㎏)の税が課せられた。
④新町(沢内代官所在地)に中堰(道の両脇にあった水路)を造るために、沢内中より人足百人を集め、手伝ってもらう計画が実施された。(新町堰・水路・建設が始まった)
⑤秋田西鳥海山が噴火し、焼けた。この後十三年間も噴火があった。その度ごとに沢内に火山灰が降った。《『日本の災害』によれば、「鳥海山は享和元年(1801)2月から噴火活動を始め、7月6日荒神岳付近で大爆発を起こし荒神岳と七高山との間に溶岩や火山岩塊を堆積するとともに享和岳を形成、周辺に大量の灰を降らす。折から権現堂参詣のため登山していた地元の青年8人が噴石に打たれて死亡。鳥海山はこの前年にも噴火ており、さらにこの後、文化元年(1804)、文政4年(1821)、および天保5年(1835)に噴火記録がある。」とあるが、この資料記述より7年も前に噴火していたことになる。》

⑥谷風(第四代横綱)死去。谷風は岩見潟死去の後、日本第一の関取で仙台藩お抱えの力士であった。「巣郷本」と「白木野本」に記録されている。《『古今相撲大事典』によれば「岩見潟 丈右衛門(関脇)南部藩抱えの力士で、東関脇に付け出され7勝1敗の優勝に相当する好成績を残し実力を示した。その後、安永3年4月までは出場したり欠場したりで、翌10月からは三役で土俵に立ち頑張りとおしたが、8年3月限りで出場せず、翌9年郷里で亡くなった。

明和9年6月、仙台つつじが岡での興行で達ケ関(後の谷風)に連勝した記録が残り、疑問点が多いとされているが、彼が強豪であったことは確かであろう。出身地・岩手県和賀郡和賀町(現・北上市) 本名・小田島善太郎 生年月日・延享元年(1744)四股名・岩見潟(岩見形) 入幕・明和4年(1767)3月場所 最終場所・安永6年(1777)3月場所 最高位・関脇 幕内在位・12場所 幕内成績・37勝28敗 勝率・0.569身長194cm(6尺4寸) 没年月日・安永9年12月14日(37歳)」とある。相撲は当時から人気スポーツであったこと。沢内通りにも相撲ファンが多かったと思われる。》

⑦「草井沢本」 閏11月あり。正月16日月蝕9分欠ける。12月1日 日蝕9分余り欠ける。田畑作共に半作。収穫は平年の半分であった。

寛政七年 乙卯(キノトウ・・・1795年の記録)   
◇和賀・稗貫の百姓一揆  ◇湯川堰普請林
①米・農作物の出来は不作といわれているが、日照りの日が多く、上作の所もあった(「巣郷本」「白木野本」では「上作もあり」と記述。「下巾本」には「上作なり」と断定している)年貢割合いは安永四年の元割合より三歩引きであった。この年六月十七日より、終始日照りが続いた。御代官 箱石覚右エ門、岩間小右エ門。

②この春、和賀・稗貫二郡の村老(村役・リーダー)が集まり相談し合った。相談内容は先年、大向伊織様お役お勤めの時には四百文(12.000円から20.000円の割り当てを四百五十文(13.500円から22.500円)にして納入済みになった。今もっとも金値段(貨銭価値)が高くなっているが一貫文(1貫は1.000文、3万円から5万円)の諸経費の割り当てにも困っている。それなのに、御繰合(繰りあい・繰上げ・税の前納)御貸上抔(貸し上げぶ)という名目で、ご返済されない税を年に一、二度も取られては、この通り(地域)では生活できない。全百姓が城下に行きこのことを申し上げ、お願いすることに相談が一致した。

十一月末から十二月の始めまで、二郡(和賀・稗貫)の総百姓が城下(盛岡)に集結した。御役人大田忠助様他お侍たちが出て、百姓たちと向き会った。お願いの主旨、内情については取り上げると仰せがあった。
これまで馬一頭に二百文(6.000円から10.000円)の御役銭(税)。御買上米。寸志金(人頭税)その他、物品の供出についても免ずる趣旨、仰せられた。百姓達は皆ありがたくお受けし、静まり返った。

《寛政六年江戸桜田の藩邸新築に際して諸士は米一石に一両の割合。百姓は寸志金の名目、町人は分限金の名目で一万九千両余りを課税させられた。寛政七年暮れには盛岡の南部花巻黒沢尻・大迫方面の百姓が増税に反対して一揆をおこした。「南部盛岡藩事典」

「百姓一揆発生年表」(東北の歴史ー岩手県ー)寛政七年の一揆発生地には日詰・大迫・上田厨川・飯岡・向中野・八幡・寺林の各通り。安俵・高木・徳田・伝法寺・二子・万丁目・厨川・鬼柳・黒沢尻・大迫・沢内の各通り。とある。》

③二月 高橋直右エ門様、久保弥内様が御同心吉右エ門を連れて山々の検査吟味改めに来られた。川尻畑の沢山の方角にある赤倉沢はどうなっているか協議された。「先年享保十三年(1723)に堰普請に活用したい旨書き上げお願いしました。御代官栃内金左エ門、野沢与左エ門様、下役小田嶋喜兵衛様、川尻上野の御地頭野々村此面様、岩泉惣右エ門様、川尻肝入助右エ門の皆様方お立会いで湯川堰普請林にその場所で仰せ付けられております」と川尻の勘右エ門が申し上げたところ、直右エ門様、弥内様その他の方々もお聞きになって、今後もそのようにと定められた。

④「草井沢本」田は半作。畑は中作。6月16日月帯蝕4分(帯蝕は太陽や月が蝕のまま地平線に出たり、入ったりすること)12月1日 日蝕 1分あまり欠ける。6月24日より8月末まで大雨、水多し。

寛政八年 丙辰(ヒノエタツ・・・1796年の記録)
◇和賀・稗貫二郡百姓一揆(強訴)の結果
①米・農作物の出来具合は中作。平年並みの出来であった。課税割合は安永四年(1775)に示さた割合と同じと仰せ付けられた。
②去年百姓達がご城下に結集して、強訴した結果、藩全体の役人は大小の役を問わず皆改められた。御代官 七戸儀右エ門、山屋万左エ門。御下役の小田嶋嘉左エ門様は高橋直右エ門様に代わられた。御物書(書記役)忠右エ門になる。

③「草井沢本」田の米の出来は中作。畑は同じ中作。1反歩あたりの収穫高に対する税の割合は15%であった。5月15日月蝕 1分ばかり欠ける。6月1日日蝕7分欠ける。11月16日月蝕。

寛政九年 丁巳(ヒノトミ・・・1797年の記録)
◇沢内追放者、重兵衛貝沢で自殺  ◇稲一束より米二升二合収穫
①米・農作物の出来は中作。平年並みの出来具合であった。課税割合は安永四年(1775)割合より二歩引きであった。御代官 山屋万左エ門、澤田右エ門。

②南部領内の奥の者(現在の岩手県北部か)重(十)兵衛という人が、沢内へ追放になった。沢内に来る途中、宿を逃げ出し、貝沢の山で首吊り自殺した。この事件で大騒動になった。七戸儀右エ門様は検断役(警察役)を免職になった。代わりに澤田右エ門様が来られた。(「巣郷本」「白木野本」では、「万左エ門様、検断御役御免」と記されている。前後の関係記述文を考えると、「下巾本」が事実と思われる)。

この事件によって役銭(臨時の雑税・捜査費用)収穫高一石(150kg)に付き十一文(330円から550円)の税を割り当てられた。
「重兵衛はどのような罪で沢内追放になったか解らない。宝暦12年(1762)宮古代官所の役人であった高橋子績(「沢内風土記」の著者)が沢内追放(左遷)になっている。この先例からすると重兵衛は役人であった可能性がある。警護責任者の検断役が免職にされたことを考えると一般庶民とは違う人物と思われる。」

③入石(他領地から買い入れた米)一升(1.5㎏)三十七文(1.110円から1.850円)であった。
④「草井沢本」 田(米)は上作。良く穫れた。畑は中作。1反歩の収穫高に対する課税は15%であった。閏7月あり。5月15日月帯蝕、皆欠ける。この年、稲一束(いっそく・稲を手で刈り取った小たばを1把といい、10把を一束という。直径約20cmの束になる)から2升2合(3.3kg)穫れた。(古老の話では、2升2合は籾にしての収量で、 当時であれば2升穫れれば良い方で、二升二合はめったにない収量であったと思われるとのこ と。なお、籾を玄米にすれば、その半分になるという。当時としては記録的な収量であったと思われる)

寛政十年 戊午(ツチノエウマ・・・1798年の記録)
◇瀬畑の伊四郎強盗に切り殺される  ◇大豆小豆は豊作
①米等の作柄は中の下。農作物の出来具合は平年よりやや悪かった。課税割合は安永四(1775)の元の割合の三歩引きであった。御代官 澤田宇右エ門、葛西市右エ門。
②湯本の山室橋掛け代える。入石(他領地から買い入れた米)一升(1.5㎏)の値段は三十八文(1.140円から1.900円)であった。(この年の入石1升の値段は、「巣郷本」では38文。「下巾本」では、43文。「白木野本」では38,9文。「草井沢本」では42文とあり、みな違っている。入石を扱っているのは村の肝入(村長)と思われることから、村や地区によって値段は夫々皆違っていたとも考えられる。)

③六月二十四日 川尻地区瀬畑の伊四郎という者が、横手山内のブナ坂という所で強盗に切り殺された。強盗犯人は伊四郎の金銭を奪って逃げたが発見され捕まった。吉左エ門は磔(はりつけ)の刑。秀蔵という者は打ち首にされた。二人の者は共に横手戸村の下人であった。なお、伊四郎の子は「父が殺害されたのに、通り一遍に済ませて帰った」という落ち度によって百日余り牢屋に入れられた。

④大豆小豆は豊作であった。大豆一升十六文(480円から800円)。小豆一升十一文(330円から550円)であった。
⑤「草井沢本」田は半作の内にはいる出来具合である。畑は中作。1反歩あたりの収穫についての税率は11%であった。4月14日 皆既月蝕。10月1日 日蝕4分半かける。10月16日 月蝕6分半欠ける。稲1束から米1升(籾)が穫れた。相場米(一般に売買されている米)1升(1.5㎏)38文(1410円から1.900円)であった。
《「歴史年表」から本居宣長「古事記伝」完成。近藤重蔵、エトロフ島に「大日本恵土呂府」標柱を建てる。》

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