「沢内年代記」を読み解く(十八)  高橋繁

寛政十一年 己未(ツチノトヒツジ・・・1799年の記録)  
☆八月十九日大風(台風)吹き荒れる。  ☆下前川の橋架け替えなる。
①米は上々の出来具合であった。課税は安永四年(1775)の元歩より二歩増し(「巣郷本」「白木野本」「草井沢本」。「下巾本」だけが「一歩増し」となっている。)
②御代官 澤田宇右エ門、葛西市右エ門入石(他領より買い入れた米)一升(1.5㎏)は三十六文(1.080円から1.800円)であった。

③八月十九日より二十日まで夜昼三日大風吹く。粟、ソバは、吹き倒されてしまった。場所によっては稲まで吹きこぼれた。山々の大小の木々まで吹き倒された「草井沢本」。(「巣郷本」「白木野本」には「八月十九日、一日に二度大東風吹き、粟、大豆は大変な不熟であった」とある。「下巾本」には「八月十九日、二十日の晩より一日目、二日目の夜まで大東風吹き、粟、大豆大不熟なり」とある。)台風が吹き荒れたと思われる。
④湯田村下前川の橋が架け替えられ、板橋になった。(丸太の橋から、板を張った橋になった)

⑤「草井沢本」
  ◎田は中作の上。畑も同じ(陸稲)。1反歩(300坪・約991.7㎡)あたりの課税は16%であった。この課税率は去年より五歩増しであった。(去年は安永4年の税の三歩引きであったから、5歩増しは、安永4年を基にすると安永4年の2歩増しということになる)
  ◎粟の背丈は5尺(約166.5cm)にもなった。4月末から7月16日まで雨降らず。天気は良かったが、水不足であった。
  ◎8月19日より20日まで・(上記③の通り。省略する)
  ◎9月7日 南風強く粟の実半分は吹きこぼれた。
  ◎10月21日より22日の昼ごろまで大雨が降った。その後、雪が少し降った。23日には大吹雪になった。この雪が初雪で藁沓の丈(わらぐつのたけ・藁沓の高さ・約20cmから30cm)降り積もった。この雪は消えた。

  ◎29日より11月1日まで雪降る。しかし、この雪も消え、見える山々には雪が無かった。15日には雪は少し降ったが、これも消えた。山々にも雪がなかった。
  ◎12月3日まで雪降らず。4日から5日まで昼夜大雪降る。2尺(約67cm)ばかり積もった。7日の晩より8日まで大雨降り、雪のあらましが消え、大水が出た。12日、16日、19日、21日に雨が降った。22日大吹雪、雪少し積もる。26日、28日雨降る。
  ◎この年、稲1束(稲を手で刈り取ってまとめた小さな把、10把)から、籾が1升7合穫れた。
  ◎相場米(一般に売られている米)1升(1.5㎏)28文(840円から1.400円)であった。入石は35文であった。(「下巾本」の記録より1文安く記録されている。)

⑥「歴史年表より」《幕府、松前藩管轄の東蝦夷地を7ヵ年の直轄地とする。高田屋嘉兵衛、エトロフ航路を開発。 フランス、ナポレオン大統領政府成立。》
《「内史略ー四巻」には、「江戸霊巌嶋に松前役所設置」とある。「南部家は東蝦夷地クナシリ島、エトロフまでの諸島、津軽家は西蝦夷地カラフト島までの警護を仰せつかった。年々重役、お目付け、夫々の大小諸役、御同心、大工、木挽、諸職人、庶人、またぎまで渡海・・・・御陣屋建て交代で相勤・・・とある。》

寛政十二年 庚申(カノエサル・・・1800年の記録)
☆左草と湯川の境山の伐採事件  ☆北海道松前に人足仰せ付けられる
①米の出来具合は中作であった。御代官 儀俄安兵衛、江刺家秀蔵。
②左草と湯川の境界にある山の木を秋田横手に売り渡したいと、役所に百二十貫文(1貫30.000円から50.000円。3600.000円から6000.000円)の見積もり予算で、伐採許可をお願い申し上げたが未だにお許しがなかった。以前に山子(樵)が大勢山に入り木を伐ったためお咎めがあった。

左草と湯川の村人が警備にあたり、伐らないようにと警告したが山子たち(秋田の)は聞き入れずに伐ったので御同心たちは左草・湯川の村人を大勢連れて行き追い払った。沢内の山師、清水野の久右エ門、越中畑の勘右エ門、湯川村の作右エ門は手錠を掛けられた。
次の年の春、他の村から人足を頼み、伐られた木を皆々焼き払った。この薪木の買主は横手山内、筏村の善十郎とその仲間たちということであった。許可にならなかった理由は不明である。伐採された木は他村の人足の手で皆焼き払ったというのであるから、勿体ない話である。政治や役所の論理はいつの時代も庶民には不可解なものが多かったのではないかと思われてならない。

③この年、北海道の松前に御用仰せ付けられ、沢内から初めて人足が行った。(派遣された?どのような役目で、何人行ったのかは不明である。)
④明年、改元があって享和となる。
⑤「草井沢本」
 ◎3月16日月蝕 5分半欠ける。4月1日日蝕 9分欠ける。8月15日月蝕 1分欠ける。
 ◎閏、4月あり。米の出来具合は中作。稲1束(手刈の小たば・1把が10把で1束)より、籾1升8合穫れた。粟は上々の出来であった。相場米(一般の小売)は1升(1.5㎏)33文(990円から1650円)であった。

 ◎7月2日大雨降り大洪水となる。 11日雷雨。18日晩より19日まで大雨降る。雷もあり大洪水。
 ◎7月22日午前8時「どう」と鳴る。25日昼時分「どう」と鳴る。(「どうとなる」という表記がよく出て来る。これは、鳥海山の噴火と関係のある音ではないかと思われる。鳥海山の噴火は享和元年に始まったとされているが記録されない火山活動があったのではないかと思われる)それより雨降り、大雨になる。風も吹き、晩より西風になり大風となる。26日の晩まで吹き続けた。粟の実は、場所によっては3分の1も吹きこぼされた。

 ◎8月8日初霜降る。27日まで霜は降らなかった。
 ◎9月29日初雪降る。その雪は消えた。
 ◎10月7日、8日雪降る。
 ◎11月9日雨。本格的な嵐になり、大雨大風となり大洪水となった。和賀川が増水し、舟で渡ることも出来なかった。12日は西風になり、大風になった。
⑥「歴史年表」より《閏4月、伊能忠敬、蝦夷地測量に出発。》 

享和元年 辛酉(カノトトリ・・・1801年の記録)
☆雫石川・北上川未曾有の大洪水
①米・農作物は中作。平年並みの出来具合であった。課税割合は安永四年(1774)の元の割合と同じと仰せ付けられた。御代官 江刺家周蔵、儀俄安兵衛。
②入石値段(他領から買い入れた米)一升(1.5㎏)三十四、五文(1.020円から1.750円)であった。大豆小豆は一升十七、八文(510円から900円)であった。

③六月二十日夜、北上川、雫石川が氾濫、大洪水となった。雫石では十人家族が家諸共に流され、一人残らず溺死したということである。馬五頭飼っている家では馬屋も流され、三頭は岸に逃れたが、二頭は流れ死んだという。
盛岡在の三ツ屋では家が三軒流され、仙北町では御同心の家三軒流されたという。何年にも何年にも例のない大洪水であった。

《「内史略ー四巻」には「六月二十日昼頃より大雷雨、翌二十一日暁まで小止なき大雨にて、晩七つ時頃より中津川、北上川、雫石川共に次第に大水となる。暮れ頃に至て中の橋、川中の石垣崩落悉く流失。仮橋共に流れる。下の橋、真中の石垣(此の時の水嵩、川原小路・下の橋通りの土手に等し、既に土手を越へき、躰にて危うく、川原小路住居の諸氏悉く立ち退く。

然れども遂に土手をこへす・・・・)上より一二段崩れ流失・・・・此大水にて三川筋水辺の損失、怪我 田畑の水損押計りしるへし。いまだ暮ぬ内に居宅其儘屋上に人四五上がり流れ来る。頻りに助け船を召喚といえども 船を乗り出す様もなく 皆見物するのみ。又、小児をいじめ(小児を普段入れておくエジコともいう)に入れたる儘に流れ来たりしを見る。

あるいは屋上にいかにして上りしや馬の跨りて流れ来る有。是等大方三つ谷町辺なるべし。・・・・足弱老少・・逃げ残る者は多く死すという。水面破家 大小の生木根の儘 家具雑具 長持 箪笥 櫃 戸棚 雫石春木 材木 長木の類流れ来る。・・・・」など、洪水の様子が生々しく、詳しく記録されている。

「雫石町史」には「前代未聞の大洪水」とある。「損害額は、雫石通りの総収穫高6.680石の25%にあたる」「殊にも被害の大きかったのは橋場で、全戸が壊滅状態に近い損害を受け生計が成り立たず、藩から救済援助を受けている。」と被害状況等が地域別に表にまとめられている。》

④「草井沢本」 8月15日 月蝕 2分欠ける。享和元年になる。(1行だけの記録になっている。)
⑤「歴史年表」より《富山元十郎ら、ウルップ島に「天長地久大日本属島」の標柱を建てる。幕府百姓・町人の苗字帯刀を禁止。》

享和二年 壬戌(ミズノエイヌ・・・1802年の記録)
①米の出来は不作。出来具合は平年よりも悪かった。課税割合は安永四年(1775)の元歩の一歩引きと仰せ付けられた。御代官 江刺家周蔵、儀俄安兵衛。
②入石値段(他領地から買い入れた米)一升(1.5㎏)三十八文より四十文まで。(1.140円から2.000円)(なぜか、「下巾本」には「入石三十三文」とある。他本と比べると5文から7文の違いがある)
③「草井沢本」 2月16日 月蝕 4分半欠ける。8月1日 日蝕 9分。(「草井沢本」の記録は、数年、月蝕、日蝕の記録で終わっている。)
④「歴史年表」より《幕府 蝦夷奉行(のち函館奉行)を置く。東蝦夷地を永代上知。》

享和三年 癸亥(ミズノトイ・・・1803年の記録)
☆新町にお蔵建て改める。  ☆摂津の国、病気の尼を介抱する。
①米・農作物不作。平年より悪かった。課税割合は安永四年(1775)の元歩の三歩引きであった。御代官 儀俄安兵衛、米内勝左エ門。
②入石(他領地からの買い入れ米)一升(1.5㎏)三十八九文から四十文(1.140円から2.000円)まで。新町にお蔵(年貢米の倉庫、この年初めて建ったのではなく、改善改修された倉庫。あるいは別棟の倉庫と思われる)が建て改められた。

③摂津の国(大阪・兵庫)から来たという二十四輩(ニジュウヨハイ=親鸞聖人が関東にいた時代その教えを伝えた二十四人の高弟。その業績・旧跡を巡拝する人。浄土真宗の信者。)の尼さんが病気になり、左草村に預かることになった。下の川原に小屋を作り、六十日ばかり介抱した。村の者が昼は一人、夜は二人の当番を割り当て、村役が毎夜見回りした。

この費用が沢内中に割り当てられ、迷惑した。病名、当地にこられた訳、その後どうなったのか、記録にはない。迷惑したと言いながら、病気の旅人をいたわり見守った村人の思いが伝わってくる。
④明年改元・文化となる。
⑤「草井沢本」 閏 正月有り。12月14日 月帯蝕 4分。
⑥「歴史年表」より《アメリカ船、長崎に来航し通商を要求、幕府これを拒絶。》 

文化元年 甲子(キノエネ・・・1804年の記録)  
☆尾張の坊主、二十四輩をいじめる。
①米・農作物の作柄は中作であった。課税割合は安永四年(1775)の元歩より一歩引き。
②改元があって「文化」となる。御代官 米内勝左エ門、高橋長左エ門。入石一升(1.5㎏)三十四文(1.020円から1.700円)であった。大豆は不熟であった。

③尾張(名古屋)から来た坊主と南畑(雫石)の男が、二十四輩(浄土真宗の信者)に難癖をつけ山伏峠の麓で殴りつけ、衣類まで剥ぎ取り、半死半生になるまで苛めた。二十四輩はやっとの思いで逃げ延び、沢内の道端に倒れ伏していた。御代官 高橋長左エ門が新町まで連れ運び、宿の万十郎(大野の万十郎家か)に預かり、御上様より医師が呼ばれ養生した。村人が人足となり見守り七月末に雫石御代官に引き渡した。(「下巾本」)

尾張の坊主は取り押さえられ、戒められた。村中より番を付け十四日、責山追い(無理やり道のない山に追放)にする。この事件に会った二十四輩は、普通の二十四輩とは思われない。代官が医師の手配までして、養生させ、雫石代官所に引き渡すのですから、何か訳有りの人と思われる。

なお、浄土真宗を岩手に伝え広めた人は、二十四輩の一人「是信」坊であったと言われている。尾張の坊主は、道なき道をどんな思いで歩いのだろうか。古老の話では、昔の山は結構小道が多くあり、つらい修行であったろうが、生き抜いたと思うということであった。
④「草井沢本」 6月16日月蝕 9分。12月15日月帯蝕皆既。 文化元年になる。
⑤「歴史年表」より《ロシア使節レザーノフ、漂流民を護送して長崎に来航、通商を要求。フランス・ナポレオン皇帝となる。》

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