「現代の橋本左内」と機密漏洩テロリストを一緒には論じられない。若泉敬の愛国が蘇る力作、その保守思想家にして行動者への思い入れ。
<<森田吉彦『評伝 若泉敬――愛国の密使』(文春新書)>>
若泉敬――懐かしい名前である。「愛国の密使」という副題もなかなか考え抜かれている、と思った。沖縄返還の密使として日本外交の舞台裏で大活躍した若泉は、国士でもあり、伝統保守主義でありながら、歴史家アーノルド・トインビーの文明論にも惹かれ、国際的な視野にたって、外交安全保障分野では数々の論文を書き残した。若き頃から『中央公論』などで大活躍だった。
中西輝政が書いている。「若泉敬が沖縄返還交渉で『密使』として活躍したあの時代、この国全体が無邪気な希望に満ちていた」と。
そうだ。「無邪気な希望」が日本に満ちていた、あの時代。評者(宮崎)も何回か、若泉の謦咳に直接、接することがあった。そのことは拙著にも書いた。
したがってこの場面を重複したくないと考えて、本書を読み進むと、この著者も「あの時代」のことを次のように書いている。
「若泉自身は学生運動に同情的であったようである。遡る1968年6月15日には、若泉が森田必勝らの全日本学生国防会議結成集会にかけつけ、高坂正堯とともに記念講演を行うという一幕もあった。取材陣の耳目を集めたのは、作家三島由起夫の万歳三唱と、今村均元陸軍大将の祝辞であった。
靖国神社を出て乃木神社へ到るデモ、『暴力革命を許すな』『全学連打倒』のプラカードなどを目の当たりにして、若泉も、かつての自分の姿を重ね合わせつつ時代は変わると意を強くしたかもしれない」(175p)
あの時代、すでに若泉の名は華々しく、同時に高坂の名も高く、しかし最も有名だったのは三島由紀夫であり、集会の報道で若泉の講演内容に触れたメディアは殆ど無かった。
当該のイベントに三島をかつぎだしてきたのは森田必勝であり、若泉は先輩の矢野潤が交渉し(岩畦豪雄を通じて)、評者はその日、高坂正堯を担当した。今村大将の交渉には矢野先輩と同席した。若泉はデモの時間にはほかの場所へ移動しており、著者の描写は実際にはなかった。後日、説明には行ったが。。。
さて若泉に関しても個人的なことは拙著新刊『ウィキリークスでここまで分かった世界の裏情勢』(2月2日発売)に一章を割いて、情報戦争のテロリスト=ジュリアン・アサンジと若泉の憂国の士とを対比した。
まさに若泉が『現代の橋本左内』であるとすれば、アサンジは世界政治を揺さぶったアナーキスト崩れ、比較してはいけないレベルである。
本書は若泉敬に心酔する若き国際政治学者が周到に執拗に、じつに長い月日をかけて多くの資料を渉(わた)り、あまつさえ生存する関係者に夥しくインタビューを重ねて仕上がった労作、その思い入れには脱帽である。
通読しつつ、わすれていた事実、様々な出来事を時系列に思い出させてくれた。若泉が東大時代、反共の学生運動を展開していたこと。その時の仲間が佐々淳行であり、飯島清であったこと。恩師に矢部貞吉がいたこと。
聞いた記憶がある。若泉が防衛研修所から京都産業大学へ移り、その東京事務所を舞台としていたのは、じつは衆議院議員への出馬準備だった。この知られざる事実にもすこし触れている。熊谷太三郎、平泉渉らが、当時、福井県の政治家だった。
若泉は佐藤栄作、福田赳夫直系だったが、なぜか選挙区事情からか、中曽根が割り込んできたことは、本書では叙述がないが、或る晩、若泉を料亭に誘って上座に座らせ、中曽根派から出馬をといわれたことを、じつは若泉自身から聞いたことがある。突如、そのことも思い出した。評者は、この間、毎月一度、若泉事務所に書類データ整理のアルバイトに通っていた。
しかし本書に拠ってはじめて知ったことが多い。まずは若泉が小林秀雄、保田與重郎といった文藝人脈にも恵まれていたこと。国士といわれた末次一郎とは深い繋がりがあったこと。マンスフィールドとは、若泉が米国留学時代からの知り合いであったこと(本書の裏表紙は彼と地球儀を前にした写真だ)。
若泉の弟子筋が谷内正太郎、若泉をもっとも尊敬した政治家は小泉純一郎。小泉は福井の若泉の墓をひそかに詣でていた事実も初耳だ。
1957年のロンドン留学は藤川一秋(当時参議院議員で実業家)が世話をしたこと。 伊勢神宮の初参りはトインビーに誘われてのことだったという逸話も初めて知った。
ところで本書は若泉の最後の自裁手段には言及していない。末次一郎が『崇高にして壮絶な戦死』と若泉の人生を評した。遺作となった『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の英訳版契約のあと若泉は忽然と他界した。
「その報は速やかに宮中にも届き、侍従を通じて天皇から弔意が伝えられた」(278p)。じつは最後の英訳版の契約に福井の自宅へ行っていたのは堤堯(元文春編集長、現在評論家)で、自宅を辞去し、その三十分後に若泉が急逝したことを知ったのは帰京してからだったという話を堤本人からも聞いたことがある。しかし堤は『WILL』連載の「或る編集者のオディッセイ」のなかで、若泉の最後が「青酸カリによる自決という説もある」と曖昧にして筆を擱いている。
それはともかく味わい深い力作、密使の役割、機密文書の意味についても熟慮を促してくれる。