私の曾祖父・為田文太郎と祖父・古澤行道が明治時代に手がけた鷲之巣金山(わしのすきんざん)は、西和賀町のホームページで知ってはいたが、現場を見たことはない。
今度の東北旅行で高橋繁さん(前西和賀町長)と高橋定信さん(前西和賀副町長)が、山中の秀衡街道・黄金の道を案内してくれて初めて見ることが出来た。写真でも分かるように切り立った山腹に鷲之巣金山跡が残っている。
どうやって、あの峻険な山腹から金鉱を採掘したのであろうか。しばらくは西和賀町のホームページをお読み頂く。
■鷲之巣金山跡 (わしのすきんざんあと)
平泉の金色堂で代表される「黄金文化」は、藤原清衡が嘉保2年(1095年)平泉に居を移してから、基衡・秀衡の代、文治5年(1189年)まで約百年続きました。その「黄金文化」を支えたものは大量の「金」でした。
この「鷲之巣金山」をはじめ町内各金山から産出された「金」と、出羽産出の「金」を、黄金の道『秀衡街道(ひでひらかいどう)』をつかって仙人峠から平泉へと運ばれたと言い伝えられています。
■「鷲之巣金山跡」の位置
奥羽山脈の脊梁部に位置する湯田地域のほぼ中央部に位置し、海抜240mから500m山岳地帯の鷲之巣(わしのす)川入口付近にあります。
■「鷲之巣金山跡」の沿革
「鷲之巣金山(わしのすきんざん)」は、金を産出したといわれる数々の鉱山と違って、過去に掘られた形状がそのまま残存しているところです。「たぬき掘り」、「吉次掘り」と称される掘り跡が見られ、平泉時代とのつながりをしのばせる鉱山跡です。
内部を探索すると、近代的な掘り跡も見られることなどから、その時代時代に即した開発の盛衰が感じられる鉱山でもあります。
曾祖父の為田文太郎は万延元年、岩手県和賀郡沢内村の富農に生まれ、明治22年初代沢内村長に選ばれた。その後県議に転進するが、政治に見切りをつけ、父親の為田安太の手がけていた鷲之巣金山の経営に手腕を発揮する。
文太郎は「売り上額、月々四~五〇〇円の小山を三年余りで、日本有数の金山、月産三貫目以上の鉱山に育てしまった」(和賀新聞)と記録が残っている。和賀郡史によれば文太郎が父親の安太から鷲ノ巣金山の経営権を継承したのは明治39年。その後、北アルプスで銅山の採掘権を手にいれ、富山県側からの採掘道路を開発したから、北アルプス山道の開発者として名が残った。
北アルプスの白馬村森上の「かぎ丁」旅館と黒部川下流の交通の要衝、舟見町(現入善町、当時宿場町)の旅籠に、「鷲之巣金山為田礦業所」と染め抜かれた印半纏を羽織った人達が現れたという記録もある。北アルプスの難路は四年かけ、総工費四五、二五八円で開通している。
鉱山事業のルーツは岩手県の鷲之巣金山で会得したといえる。そんな曾祖父が奮闘した鷲之巣金山跡を感慨を覚えながら見てきた。私の身体にも”山師”の血が流れていて血が騒ぐ。