北の王者・安倍一族だったが、大将の安倍貞任は厨川の戦いで朝廷軍に敗れた。知将といわれた弟・宗任は許されて四国に流された。貞任の妹婿だった藤原経清は斬首の刑に処せられた。
これが北の王者・安倍氏の末路だが、絶世の美人といわれた貞任の妹は七歳になる清衡(きよひら)を連れて、敵将の清原武貞(たけさだ)の後妻にされている。
兄や夫・経清を殺された貞任の妹の無念はいかばかりだったろう。清衡が成人の暁には安倍一族の無念を晴らしてくれる一心で憎き敵の後ぞいに甘んじている。
厨川の戦いの二〇年後に「後三年の役」が起きて、清衡は安倍一族の恨みを晴らしている。
「後三年の役」は秋田の清原家の内紛が原因となった。貞任の妹が清原武貞の後ぞいにされた時には、武貞には先妻の子・真
衡(さねひら)がいた。また貞任の妹との間に家衡(いえひら)が生まれている。
三人の兄弟の複雑な血縁関係のうえで、源義家も加わって清原家の内紛が表面化している。長男の真衡は行軍の途中で急死する事件があって、源義家は清衡と家衡に奧六郡を三郡づつ与える戦後処理をしたのだが、家衡は六郡支配を狙って清衡に攻撃を仕掛けた。
清衡は源義家に救援を求めたが、家衡軍との戦いで義家軍にも犠牲者がでて、軍馬の肉まで食べて飢えを凌ぐ苦戦を強いられている。翌年の寛治元年(1087)に義家・清衡連合軍が数万の兵を率いて金沢の柵(秋田県仙北郡金沢町)に攻め入り、家衡軍は全滅した。
義家は京都の都に帰った後は、清衡は藤原姓を名乗って平泉を根拠地にした藤原三代の祖となった。一族の敵である清原姓を捨てるのに躊躇しなかったという。貞任の妹の無念は藤原清衡によって晴らされたことになる。
安倍宗任については、これまでも書いてきている。蒙古来襲に際して、活躍した松浦水軍の祖となって天寿を全うしている。四国に流された宗任は、肥前・松浦の大領・渡辺源次久の嫡女・真百合(まゆり)という女丈夫を妻に迎えて、名を後世に残した。
安倍首相は安倍宗任の末裔といわれる。アッキー昭恵夫人は選挙となると戻れない夫の代わりに選挙区を預かって街頭演説で走り回っている。安倍一族の末裔は、いずれも強運の女性に恵まれている。
<<不束かなれども宗任様の婦とされたし 古沢襄>>
松浦と書いて「マツラ」と呼ぶ。「マツウラ」ではない。「マツラ」の松浦姓には、古い歴史が存在している。「北条九代記」の巻・第十一、「蒙古来襲 付けたり神風 賊船を破る」の項に”弘安の役”の海戦の模様が出てくる。
■蒙古の兵船は互いにかけ金を掛けて組み合わせ、その上に板を敷いたので、海上は陸地同然となり、馬を走らせても危険でなくなった。鉄の玉に火を操作し、空を飛ばしてこれを投げかけたものだから、日本の軍兵はその勢いに押された。
蒙古は勝ちに乗じて、どっと攻めかかってくる。(日本軍に)討たれるけれども、意に介さず、倒れるけれども引きさがらない。日本軍は旗色が悪くなって、菊池・原田・松浦党のもので、傷をうけたり、討たれたりした者は数えきれないほどである。
ここで出てくる松浦党は「マツラトウ」、平安時代から戦国時代にかけて九州の肥前松浦地方で組織された武士団の連合のことで、水軍として勇名を馳せている。
話は飛ぶが、自民党の安倍晋太郎氏(安倍元首相の父)は毎日新聞の政治記者だった時期がある。岸派担当記者の三羽烏といわれて、共同通信社の清水二三夫、日経新聞社の大日向一郎(いずれも故人)と並んで、同じ岸派担当記者だった私から見れば雲の上のような存在であった。
だから岸取材のかたわら、三先輩の話を聞くことも多かった。
ある日のこと、私が岩手県の出だと知った安倍氏は冗談めかして「私の先祖は岩手県」と言い出した。”長州っぽ”とばかり思っていたので、安倍姓は北の王者だった安倍一族の末裔からくると聞かされて、驚いたものである。
「陸奥史略 東北古代史伝承」の著者である上野昭夫氏は、知将といわれた安倍宗任が捕縛されて、源頼義、義家の預かりの身となったが、頼義と義家の紹介状を得て、肥前・松浦の大領・渡辺源次久と対面したいきさつをを書いている。
源次久は宗任の才覚に惚れ込み「我、痛く老朽ち、明日も計れず。愚息年少なれば、我亡き後は我が職を継がれよ。嫡女・真百合(まゆり)は、最早二〇を越ゆるも、ただ武芸を好み、不束かなれども宗任様の婦とされたし」と懇請した。
間もなく源次久は「下松浦の地を婿への引き出物として贈る」旨の書状を添えて、娘の真百合を送り届けた。源次久の死後、承保三年(1076)に筑紫太宰府や源頼義の要請によって、朝廷は「松浦郡司守護使 総追捕使 安倍宗任」の称号を宗任に与えている。
この真百合は男勝りで武芸に通じた女丈夫だったという。宗任が上洛中に謀反があって居城が囲まれた。真百合は驚く様子がなく、みずから騎馬にまたがり、城門を開かせて城兵を叱咤し、敵陣に斬り込んで撃退した。真百合は急ぎ書状をしたためて、京にあった宗任に知らせ、三ヶ月の攻防戦の末に賊軍を平定している。
姓氏研究の権威である丹羽基二氏も松浦姓について「陸奥と鎮西とは関係が?」と述べている。
■松浦姓は全国で約九万。多くは東北地方と九州に固まっている。鎮西・松浦氏には二流ある。上松浦(唐津)は嵯峨源氏流、下松浦(平戸)は安倍氏流だという。「平家物語」には「安倍宗任は筑紫に流されたりけるが、子孫繁昌して今ここにあり。松浦党とはこれなり」と記された。
この上松浦党は戦国時代に滅亡したが、下松浦党の平戸松浦氏は戦国大名として生き残り、関ヶ原の戦い以降も旧領を安堵されて平戸藩六万三千石の外様大名として栄えた。(歴史と神話 杜父魚ブログ)>