古代史に関するニュースが相次いでいる。一つは推古天皇(6世紀末)から桓武天皇の時代(8世紀末)にかけての約200年間にわたる「天皇のよろい」の一部が京都府の長岡宮跡から発見された。
もう一つはこれまで立ち入りが厳しく制限されてきた河内大塚山古墳(大阪府松原市・羽曳野市、大塚陵墓参考地)に日本考古学協会などの研究者による墳丘内への立ち入り調査が行われた。この古墳はなぞに包まれた巨大古墳(全国第五位)。 被葬者が特定されていないが、民話には雄略天皇陵という伝承がある。
三世紀半ば過ぎから七世紀末まで約四百年間続いた古墳時代なのだが、天皇の陵ということがあって、発掘調査はもちろん立ち入り調査までもが制限されてきた。
日本国家の成立のうえで、倭国に大和王権が成立した古墳時代なので、学術的な研究をすすめる面で精緻な調査が欠かせない。宮内庁の厳しい扉が少し開いたということか。
<京都府向日市の長岡宮(784~794年)跡で、「東宮」の中枢部にある内裏(だいり)(天皇の住居)の遺構から、天皇が所有したとみられる鉄よろいの部品が見つかり、向日市埋蔵文化財センターが18日、発表した。
「小札(こざね)」と呼ばれる鉄よろいの短冊状の板の一部で約30点。製造時期は、推古天皇の時代(6世紀末)から桓武天皇の時代(8世紀末)までの約200年間にわたっていた。
これまで文献では、甲冑(かっちゅう)が内裏の一部に所蔵されていたとの記述が確認されているが、実際に内裏跡から出土したのは初めて。少なくとも長岡京時代から内裏の一部を「武器庫」として使っていたことが実証されるとともに、天皇が代々、皇位継承のために引き継ぐ御物(ぎょぶつ)の1つに、甲冑があったことが明らかになった。
小札は、平安遷都に伴って東宮を解体した際に、建物の周囲を飾っていた石を抜き取った穴の跡から出土。解体時の祭礼で使用されたものとみられ、同センターの梅本康広主任は「よろいにつく邪悪なものを封じこめて次の場所へきれいな状態でいくという祭司があったのではないか」と指摘している。
長岡京跡内裏正殿地区か出土した鉄甲(てつよろい)の一部。写真は正倉院北倉収蔵「御甲」と同型=18日午後、京都府向日市・向日市埋蔵文化財センター(撮影・柿平博文) 組みひもが残っていたものもあり、東大寺の正倉院(奈良市)の所蔵物と同じ最上級のよろいに使われたものとみられる。
また、秋田城跡(秋田市)や鹿の子遺跡(茨城県石岡市)などの出土品と似ているものもあり、地方からの貢ぎ物もあったことが推測される。
出土した小札は19日~4月25日まで、向日市文化資料館で展示される。
古代政治史に詳しい吉川真司・京都大学大学院文学研究科教授(日本古代史)の話「飛鳥時代から約200年間の王権で武具が受け継がれていたことが推測される。天皇が刀剣類を受け継いでいたとは推定されていたが、よろいもという話はこれまで考えられていなかったので画期的な発見だ。
よろいは弓や刀などに比べ非常に高価なもので特別視され、近衛兵が儀礼の際に着用した可能性がある。儀礼用の武具は様々な保管場所へ移動させられていたと考えられており、遺跡から発見されたことは非常に貴重だ」(産経)>
<全国屈指の規模を誇る前方後円墳、河内大塚山古墳(大阪府松原市・羽曳野市、大塚陵墓参考地)で18日午後、日本考古学協会など考古・歴史系16学会の研究者による墳丘内への立ち入り調査があった。これまで立ち入りが厳しく制限されてきたが、宮内庁が今回、学会側の要望に応えた。築造時期や墳丘の構造など、なぞに包まれた巨大古墳の実態を垣間見る。
歴代天皇や皇族の墓とされる陵墓・陵墓参考地への立ち入りは、2008年の五社神(ごさし)古墳(神功皇后陵、奈良市)、09年の佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳(垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)陵、同市)と伏見城跡の桃山陵墓地(明治天皇陵・昭憲皇太后陵、京都市)に次いで4例目で、全長300メートルを超す巨大な前方後円墳への立ち入りは初めて。研究者らは墳丘の1段目を歩き、墳丘の表面や形状などを観察するが、発掘や遺物収集などはしない。
河内大塚山古墳については、江戸後期の「河内名所図絵」や、明治政府に招かれた造幣局技師の英国人ウィリアム・ガウランドが撮影した墳丘写真があるが、実態は不明だった。大正時代までは墳丘内に民家などが数十軒あったとされ、宮内省が立ち退かせ、陵墓参考地とした。 立ち入りに参加する考古学研究会の大久保徹也・徳島文理大教授は「墳丘の形が左右で崩れており、ふき石もないようだ。未完成の古墳なのか、あるいは、ふき石や埴輪(はにわ)など装飾を省略した新タイプの古墳なのか。議論できる素材を見つけたい」と話す。
陵墓は天皇・皇后の陵188カ所と皇子や皇女らの墓552カ所があり、被葬者が特定されていない陵墓参考地を含む総数は896カ所。
宮内庁は「静安と尊厳の保持のため」として一般の立ち入りを禁じているが、同庁が指定する被葬者の年代と、推定される築造時期が一致しない個所が多いため、1970年代以降、学会側が公開を求め、08年2月に初めて学術目的の立ち入りが許可された。(朝日)>