渡部誠一郎さんが亡くなった。畏友・渡部亮次郎氏の兄貴。誠一郎さんは私と同年、秋田の県紙・秋田魁新報の常務だった人だが、郷土史の造詣が深いのでかねがね敬意を払っていた。1990年に「中川重春・伝: 男鹿が生んだ英傑」の著書がある。
私は北陸勤務が五年と長かったので、北前船に関心を持ち、資料集めをしたことがある。その北前船について誠一郎さんもコツコツと資料を集め、「影薄かった秋田の北前船」の論評を発表している。
<まさに表日本と言う表現がピッタリの日本海海運も、主役は専ら北陸や畿内の人たちで、秋田の船は影が薄かった。
「秋田県史」第3巻「近世編」(下)によれば、明治も近い嘉永のころ(1848-54)、秋田の回船は土崎、能代の両港を合わせて19隻、それも200石級(30トン級)以上の船はわずか8隻に過ぎなかった。>という書き出しで始まる論評は、豊富な資料を駆使し、実証的で私の及ぶところではない。
北陸からみた北前船と秋田で栄えた北前船では雲泥の差がある。その北前船の栄枯盛衰を東北人の目でしっかり捉えている。
話は飛ぶが、秋田県人と岩手県人には気風の違いが顕著である。明治維新に向かう幕末の動きは秋田の佐竹藩はいち早くとらえて朝廷側についた。一方、岩手の南部藩は幕府側について最後の賊軍の汚名を着ている。その違いは秋田が京都や江戸の動きを察知していたのに対して、岩手は京都や江戸の動きに疎く、今でいうならバスに乗り遅れたからである。
その原因は秋田は日本海が表だった時代に海運が盛んだったことに原因があったと思う。閉鎖的な岩手に対して、秋田は先進的で開明的だったといえる。
さらに話は飛ぶが、東北は古代から閉鎖的な土地柄だったわけではない。岩手を中心に勃興した北の王者・安倍一族は朝廷軍によって滅ぼされたが、安倍貞任の末裔は近臣に守られて落ち延び、津軽の地・十三湊で安東氏の祖となっている。
この十三湊は興国の大津波で壊滅したが、最盛時には700隻の船を擁して大陸との交易で繁栄をみていた。1089年には高句麗の李晩鐘という漂着民が帰化し、日本海を渡る交易船の建造で最新の技術を提供した史実が残っている。
秋田家文書に「安倍貞季の築いた十三湊新城は、秦の長城に比すべきものという」という長文の記述がある。貞季公は安倍貞任の末裔、朝廷側からみれば賊徒だから、記述の内容はまさに野史。この「十三湊新城記」は秋田元子爵家の所蔵だったが、今は東北大学付属図書館の所蔵となっている。
古代から中世にかけての東北人は閉鎖的な蝦夷の末裔どころか、日本海を渡って大陸との交易によって富を築いた”海の民族”であった。
北の王者・安倍一族の興亡史に惹かれた私は、とくに幻の中世都市・十三湊に関心を持って「十三湊文化と蝦夷系譜の秋田氏」を杜父魚ブログに書いたことがある。また安倍貞任の実弟・宗任の末裔を自負していた安倍晋太郎氏とは政治部記者時代によく会ったが、この宗任については平家物語の剣の巻に「宗任は筑紫へ流されたりけるが、子孫繁盛して今にあり。松浦党とはこれなり」とある。
松浦(まつら)党とは長崎県松浦を根拠地とした水軍で、元寇の役では元の巨大船を襲撃して数々の武功を立てている。貞任の末裔が十三湊の交易船で栄え、宗任の末裔が松浦水軍として後世に名を残した。いずれも岩手の産である点が面白い。
さらにいうなら、明治維新で建軍された日本海軍は、薩摩出身者が海軍大将を占めて一大派閥を為していたが、二番目に海軍大将を輩出したのは岩手県。米内光政はじめ五人の海軍大将を出して、将官クラスは33人も上っている。