「日本書紀」巻26の「天豐財重日足?天皇 齊明天皇」の項に次の記述がある。日本の古代国家の形成過程で朝鮮半島の「百濟(百済=くだら)との関係が重視され、儒教、仏教はじめ多くの大陸文化がもたらされた。
その百済が唐と新羅の連合軍によって滅ぼされたのが660年。日本書紀には「百済王ウィジャ(義慈)と妻のウンゴ(恩古)が捕虜となり7月13日に唐に送られた」ことと「天皇の御加護により、百済国はまた国体を取り戻しました。天皇にお仕えしています百済国の王子豐璋を国主とするために、お返しください」と言う内容になっている。
<冬十月、百濟佐平鬼室福信、遣佐平貴智等、來獻唐俘一百餘人。今美濃國不破・片縣、二郡唐人等也。又乞師請救。?乞王子余豐璋曰、或本云、佐平貴智・達率正珍也。唐人率我?賊、來蕩搖我疆?、覆我?稷、俘我君臣。
百濟王義慈、其妻恩古、其子隆等、其臣佐平千福・國辨成・孫登等、凡五十餘、秋於七月十三日、爲蘇將軍所捉、而送去於唐國。蓋是、無故持兵之?乎。而百濟國、遙頼天皇護念、更鳩集以成邦。方今謹願、迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲國主、云々。
詔曰、乞師請救、聞之古昔。扶危繼絶、著自恆典。百濟國、窮來歸我、以本邦喪亂、靡依靡告。枕戈嘗膽。必存拯救、遠來表啓。志有難奪。可分命將軍、百道倶前。雲會雷動、倶集沙?、翦其鯨鯢、?彼倒懸。宜有司、具爲與之、以禮發遣、云々。送王子豐璋及妻子、與其叔父忠勝等。其正發遣之時、見于七年。或本云、天皇、立豐璋爲王、立塞上爲輔、而以禮發遣焉。>
百済復興のため倭国から朝鮮半島に戻った豊璋王も白村江の戦いに敗れ、高句麗に亡命するも、やがて唐に捕らえられ流刑となったため、日本に残った禅光王が百済王族の血統を伝えることとなった。
その白村江の戦いは663年。倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争だが、倭国軍の派兵は第一派(661年)1万余人、船舶170余隻。第二派(662年)2万7千人。第三派(663年)1万余人という大がかりなものとなった。斉明天皇は九州へ出兵したが、661年に邦の津にて急死している。
白村江の戦いで大敗した倭国の水軍は、各地で転戦中の倭国軍や亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国している。
勝利した唐は、戦勝記念碑である「大唐平百済国碑銘」を韓国扶餘郡に建立している。「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり」と百済に手厳しい。
「内には妖婦を信じ・・・」とは、「日本書紀」にある「其妻恩古」のことであろう。だが、「三国史記」や「三国遺事」にはその名はない。7百年間にわたって栄えた文化を誇った百済だったが、その末路はもの悲しく寂しい。唐と同盟して百済を滅ぼした新羅も935年に滅亡した。日本では平将門の乱が935年。