「沢内年代記」を読み解く(十一)  高橋繁

宝暦七年 丁丑(ヒノトウシ・・・1757年の記録)
①十二月十五日 月蝕。
②田は上作。米は平年以上によい実りであった。しかし、凶作が続いたのでこの年まで難儀(苦労)した。(「下巾本」)
③去年の不作のため、米一升の値段は百三十文(6.500円)であった。(「草井沢本」)

④四月六日越中畑番人 堀切半右エ門、十月十一日 日本堂善右エ門
⑤御代官 澤田四郎右エ門《この年、田は上作、畑も悪くなかったと思われる。人々はホットしながら厳しい生活を強いられていたことが分かる。米1升の値が現在のお金に換算すると、6.500円ということですから、食うや食わずの生活をしていた人々もいたに相違ない。》

宝暦八年 戊寅(ツチノエトラ・・・1758年の記録)
①六月十六日 月蝕。十二月十五日 月蝕。(「下巾本」には「日蝕」と記されている)②田畑ともに上作。二年続きの上作である。一安心の年と言えそうでる。
③三月二十九日 越中畑番人 橘軍左エ門、九月二十四日 中川原藤右エ門

④九月 不思議な星が出た。どのような「星」が「不思議な星」なのか想像できないことが残念である。当時の人々の目も耳も相当に敏感であったという。よく見え、よく聞こえたのだから、「不思議な星」は「不思議」な特徴を持った星に違いない。

⑤「草井沢本」には「歩付九歩利助、九歩七右エ門、九歩長八」の記録がある。「歩付」(ぶつけ)とは年貢の上納割合である。収穫の多い上田、中田、収穫の少ない下田のから算定する方法、その年の出来高によって算定する方法等があったという。この場合は収穫高の九歩(9%)が利助、七右エ門、長八に割り当てられたということになる。なお「歩付」についは「草井沢本」のみに寛延三年(1750年)から記録されている。

宝暦九年 己卯(ツチノトウ・・・1759年の記録)
①七月閏あり。農作物の出来具合は「半作」。平年の半分の出来高であった。
②この年、一切雪が降らず。春になって少々雪降る。「春になって」とは春彼岸が過ぎてからということになる。「草井沢本」には「五月二十三日田植え」「閏七月十九日田かり」とある。現在の暦では、六月中旬から下旬にかけて田植えをし、九月中旬から下旬にかけて稲刈りをしたことになる。当時としては、田植えも稲刈りも早い時季に終わったことになる。

③六月五日 新町の志賀来山(しがらいさん・新町から見ると和賀川を越えた、向かいに見える)に金山が出来た。金山を探し掘り当てた山師は、仙台藩は白石町の遠山清八という者であった出先の出張所を新町の多次兵エ家にした。この清八は偽の山師であった。志賀来山には金銀が湧くように採取できるといいふらし、資金の投資を呼びかけた。

八月十九日の夜、山に入って働く人足八十四人、一人も残らず逃げ去り行方をくらました。この金山に投資し掠め取られた総損害額は、二千二百貫余り。(一貫文は1000文。1文を50円として換算すると、11000万円となる)

大胆不敵な詐欺師もいたものである。「雲霧仁左衛門」は小説の架空人物でなく、実在したかも知れないと思った。二カ月半生活し、1.1000万円を騙し取ることが事実としてあった。この金額を84人で単純に分けると、一人当たり約131万円にもなる。不作、凶作、飢饉が繰り返される中でこんな金額があったことが不思議でならない。宝暦五年(1755年)の「俵さがし」の際にも相当の金額が拠出させられている。研究者にお聞きしたところ、沢内通りは内実は豊かであったと思われるとのこと。

その根拠は詐欺師が狙い定めて来るほど豊かであったという事実。雪深く、冬が長く、年貢米の算定に余裕を持たせた。役人は地域の実情を分かり、同時に地域の反感を買ったら役人自身生きられないことを知っていたからだという。また、年代記のような記録には「豊かで暮らしやすい」という記録は皆無ということであった。しかし、この事件のために破産した家もあったということを聞くと、詐欺師の言葉を信じ、必死に蓄えた金額を投資した人々の落胆の姿が想い浮かぶ。願いや希望を無残に踏みにじられ、怒りよりも嘆き悲しむ人々の姿が想像されてしかたがない。

宝暦十年 庚辰(カノエタツ・・・1760年の記録)
①五月一日日蝕(「下巾本」「草井沢本」)六月十六日月蝕(「草井沢本」)十月十五日月蝕(「下巾本」)「巣郷本」には日蝕、月蝕の記録なし。
②田畑の作物は上作であった。「草井沢本」には歩付(ぶつけ・年貢上納割合)一割利助、十九歩(19%)七右エ門、十九歩(19%)長八。上作のため、歩付は宝暦八年より高くなっている。

③四月十日湯田(現在の湯本温泉)の「うしの湯」ができた。「うしの湯」は現在も続いている。
④二月十八日 美濃ノ国郡上城主 金森兵部小輔(かなもりひょうぶしょうゆう)が南部藩に預かりの身になり盛岡に来られていたが、四十三歳で逝去された。《郡上城主の金森兵部小輔頼錦(よりかね)は天正年間から続く名門の出であるが、みやび・優美・風流を好み財政放漫であった。

年貢米はもちろん、人頭税はじめ牛馬、犬猫までの種々の重税を課したと伝えられる。そのため宝暦元年に庄屋十六人が江戸藩邸に訴願した。藩主は訴人と会い租税を軽減したりしたが、藩の財政は逼迫し、定免を止め、測量による租税強化を計った。しかし、農民は服せず、藩は旧制の復帰を約束した。

しかし、測量による租税の推進を計ったため、農民代表四十名が江戸藩邸に訴状を出し、さらには老中酒井忠寿に訴えた。一時は収まったが、農民間と藩役人の抗争が続き、藩主は連年の失政で藩領を没収された。藩主は南部藩に預かりの身となつた。(「美濃国宝暦年間郡上郡一揆」)

南部藩の歴史資料「内史略」には、「金森候正月二十三日江戸発足 道中十三日振 二月九日未ノ上刻(午後2時頃)御着 住居はできていないので中ノ橋入り口の毛馬内六郎宅を借り上げた。後に石間にお屋敷があるので普請が終わり次第番人十人を付けて引き移す。この日の着衣、御膳の献立が記されている。・・・・・・金森候宝暦八年寅年十二月二十五日御預 四十七歳。日ごろ丈夫な方であったが、・・・・快気もどらず・・・・兵部候御下りより当年まで六ケ年 御年五十二歳也。」逝去後幕府への報告、幕府からの検使等の様子が詳しく記録されている。
⑤五月三日 越中畑番人 笠間茂助、九月十七日 瀬川金吾
⑥御代官 多賀兵蔵

宝暦十一年 辛巳(カノトミ・・・1761年の記録)
①田畑半作。十月十六日月蝕。歩付(年貢上納割合)三歩(3%)利助、十三歩(13%)七右エ門、一無(10%)長八。歩付についての記録は「草井沢本」のみである。
②五月十八日 顔かたちの美しい、二十歳ばかりの女の人が、下女一人をお供にして川尻に来られた。大明神のお宮に泊まられた。旅の服装を絹布の着物に着替えられ、夜明けに盛岡の方に往かれた。この女の人は郡上城主金森公の姫君であるという風聞であった。

この年は菊戴(きくいただき)という鳥が多く飛来した。金森公の御跡を慕って来るのだということであった。金森公の御逝去の後は飛んでこ来なかった。(菊戴はしじゅうから科の小鳥で、目白より小さく、体の背面は暗緑色。)

《姫君は岐阜の郡上から日本海に出て、北前船で酒田港か秋田の本荘か土崎港で下船。白木峠を越えて来られたようである。海上は陸路より何倍も早く、敦賀港から一週間以内で秋田の港まで余裕をもって来られたという。盛岡から東京までは二週間以上かかったという。南部藩は大阪に米を運び、販売するために山形の酒田港に出先所を設けていたという。酒田港まではどのような道筋を通ったかといえば、現在の平和街道、仙岩峠、鹿角街道などであったという。岩手から山形酒田までの経路についての資料がないのは不思議であり、残念である。》

③三月 越中畑番人 新田目忠平、九月二十四日 一方井長四郎。
④御代官 升内清六、小嶋嘉七郎   

宝暦十二年 壬午(ミズノエウマ・・・1762年の記録)
①九月十六日月蝕。四月閏あり。
②田畑の作物の出来は上作であった。歩付(年貢上納割合)三歩(3%)利助、十三歩(13%)七 右エ門、十三歩(13%)長八。
③四月二十四日 越中畑番人 本宿弥平太、九月十二日 江本甚太夫

宝暦十三年 癸未(みずのとひつじ・・・1763年の記録)
①六月四日の晩洪水となる。七日より十四日まで大雨が降り続いた。十一日になって川尻地域に水が上がり、引かなかった。(浸水したことを意味していると解した。)秋田の横手大町に水が上がり小路に春木(薪にするため伐りとっておいた木)が流れた。横手にある三つの橋は落ち流された。「草井沢本」には「横手大町、四日町は大水が上がり、町の中は舟で通るほどの大水であった。橋は三橋共に落ちる。」と記されている。

②「草井沢本」には、「作物の出来具合は半作。九月一日日蝕。五ツ過ぎより四つ時までこよみに無御座候。」とある。「五ツ過ぎより四つ時までこよみに無御座候」の意味が解らない。「五ツ過ぎより四つ時まで」は「午前9時過ぎから10時頃まで」と解される。「こよみにござなくそうろう」が解らない。
③三月二十日 越中畑番人 三上五十七、三月七日 本堂善六。(越中畑関所番人は「下巾本」のみに記録されているが、日付、三月二十日と三月七日は同じ月内に前後してあるのはどうしてなのか。写本上の間違いか。不明である。)
④御代官 古澤長作 《杜父魚塾長 古澤襄氏のご先祖・ご親戚と思われる。》

宝暦十四年 甲申(キノエサル・・・1764年の記録)
①この年改元 「明和元年」となる。十二月閏あり。田畑ともに上作であった。
②四月九日 越中畑番人 工藤弥治右エ門、 九月五日 本宿與右エ門
③御代官 古澤長作

明和二年 乙酉(キノトトリ・・・1765年の記録)
①正月十六日 月蝕。七月十四日 月蝕。
②田畑は分吉(「巣郷本」)。田畑は中の作(「下巾本」)。田畑当分吉(「白木野本」)。田畑当分よし(「草井沢本」)。この年の作柄の記録は「分吉」「当分吉」とこれまでの表記と違う表記となっている。中作よりよく上作に近いが上作とは言いがたいということであろうか。
③越中畑番人 木村忠右エ門、 十月十日 石亀権左エ門

明和三年 丙戌(ヒノエイヌ・・・1766年の記録)
①田畑中作。「草井沢本」には「粟刈の時期、大風吹き粟に風をあててしまった。」とある。
②正月十六日 月蝕。
③三月二十四日 越中畑番人 菊地藤右エ門
④御代官 米倉悠(ハルカ)

明和四年 丁亥(ヒノトイ・・・1767年の記録)
①五月 閏(「巣郷本」のみ)。九月 閏あり(「下巾本」「白木野本」「草井沢本」)。
②正月一日 日蝕。  五月十五日大雨。(「巣郷本」のみ)
③五月十五日 秋田の大曲より三両二歩(一両は約四貫文、約20万円。一歩・分は十分の一で2万円。およそ64万円ほど)で新町の神明神社の御神輿が届いた。この年からお祭りが始まった。

④三月二十六日晩、七つ過ぎ(午前4時頃)大地震があり騒ぐ。四月五日朝六つ時(午前6時頃)に地震。七日朝五つ時(午前8時頃)大地震。大風も吹き、一時大騒ぎとなった。秋まで時々地震が続いた。(この地震は相当に大きな地震であったと思われるが、歴史年表等には記されていない。被害の有無も分からないが、不安であったに違いない。) 
⑤九月十四日雷とともに大雨降る。十六、十七日には朝霜か降りた。
⑥六月十五日より八月十五日まで大日照り。旱魃となつた。(歴史年表には「諸国旱害」とある。)

⑦この年、蝗(エナムシ)多く、畦道の近くの稲三株ばかりは喰わず、他の稲に喰いつく。虫の形蟻に似て羽がある。また数が少ないが羽のないのもいる。水に落ちれば跳ね上がる。《享保17年1732年には、九州地方においては「蝗害」(こうがい)があった。この虫はウンカの類で稲の汁液を吸って枯らす害虫で体長1cmほど。形はセミに似てよく飛び跳ねた。梅雨時に中国大陸から季節風に乗って飛来し時に異状発生した。「徳川社会のゆらぎー倉地克直著」による。セミと蟻ではかたちが違い過ぎる。しかし「ヨコバイ」類は体長がセミより小さいが大きさは蟻と似ている。》

「草井沢本」には「大日照りで水は断ち切れ、無くなった。稲の穂が出かかると虫がつき、穂は出ることができず、実になることがなかった。畦道の側、三かぶばかり離れた場所にある稲は虫は喰わなかった。喰われた稲の穂は黒くなった。耳取、本内、小繋、杉名畑、鷲ノ巣の地域は虫食いは多くなかった。九月三十日朝四つ時大地震があって騒いだ。」
⑧作物の中では粟か良く出来た。虫食いのため、米一升の値段が三十二文(約1600円)となった。
⑨御代官 中嶋才兵衛

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