関東で勢威を振るった多賀谷氏の夢の跡 古沢襄

関東で一千挺の鉄砲隊を擁して徳川家康から怖れられた戦国大名・多賀谷氏の居城は、茨城県の下妻市にあった。寛正三年(1462)に下妻城が築城されたが、周辺を沼地に囲まれ、大宝沼と砂沼に挟まれた島状の高台に築かれた水城だったという。

常陸国の大名だった佐竹氏を盟約を結んで、小田原の後北条氏と対立し、幾たびか大軍による侵攻を受けたが、ことごとく撃退している。この地に中世からある古沢邑があるが、地名の由来は定かでない。古い沼地の意味なのかもしれない。現在の下妻市古沢。

私の一族は鬼怒川を挟んで対岸にある八千代町から興った地付きの土豪(赤松氏を名乗る)だったが、多賀谷大名に服属している。三万の後北条氏による下妻城攻めに際して、多賀谷武将だった赤松勢が城外に打って出て、沼地に囲まれた古沢邑で死闘を演じて、後北条勢を粉砕している。

その軍功によって多賀谷大名から古沢邑を賜り、姓を古沢に改めたというから、比較的新しい古沢姓だといえよう。「地戦千騎」と称した多賀谷軍団は二十隊から成り、それぞれの隊には士(さむらい)大将がいた。総勢で3149という記録が残っている。

三万の後北条勢に対して多賀谷軍団が十分の一の軍勢で迎え撃ったことになる。その多くは下妻城に籠もって護りを固めた筈だから、古沢邑に打ってでた赤松勢の数は知れている。沼地という天然の要害と足軽鉄砲隊という特殊編成がなければ、逆に粉砕されていただろう。

佐竹の応援軍が駆けつける前に後北条勢は遺棄死体を残して総退却したというから、古沢邑の戦いは奇跡に近い。城主の多賀谷氏も古沢邑の赤松勢は佐竹応援軍が駆けつけるまでの時間稼ぎの犠牲軍団という位置づけだったろう。

この佐竹氏と多賀谷氏は二重の姻戚関係で結ばれていた。佐竹義宣の正妻は多賀谷重経の長女。多賀谷重経には一子・多賀谷三経という嫡男がいたが、これを廃嫡して佐竹義宣の実弟・宣家を次女の養子に迎えて、多賀谷家を継がせた。

下妻城には養子の多賀谷宣家が入り、多賀谷三経は川向こうの出城に追いやられている。反発した多賀谷三経は徳川家康の次男である結城秀康に心を寄せる様になる。秀康は関ヶ原の合戦で西に赴いた家康の名代として関東の押さえの総大将になって、佐竹・多賀谷軍団の動きを封じた。関ヶ原の合戦後は、越前国北ノ庄藩(福井藩)の初代藩主、越前松平家宗家の初代となった人物。

多賀谷三経は越前松平家の家老になって多賀谷家の家名を残すことになったのだから、世の中の先は分からない。一寸先は闇だといえる。

父親の多賀谷重経は家康から疎まれ、下妻城は破却されて、逃亡して琵琶湖河畔で憤死している。養子入りした多賀谷宣家は佐竹家に帰参して、出羽国の檜山城(能代城)に入ったが、多賀谷軍団3000の中、従って檜山城に行ったのは僅か四十人だったという。古沢一族の多くは常陸国に残って土着したが、一部が檜山城に行っている。

その檜山城も家康の命によって破却された。出羽国に赴いた多賀谷家臣たちも異郷の地で土着し農民となっている。家康を怖れた多賀谷宣家は、檜山城趾の西側にある茶臼山に籠もり、正妻の多賀谷重経の次女と離別して、ひたすら恭順の意を表する日々を送っている。

次女は尼となり、檜山城外にある寺に身をよせて生涯を送った。この寺は能代市の潜龍山多宝院。常陸国からきた多賀谷家臣たちが集まって、次女を慰める日々だったという。潜龍山多宝院には多賀谷重経座像が残されている。

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