東信史学会機関誌「千曲」第18号・第19号に掲載されている一志茂樹氏の「名族真田氏の発祥について」によれば、「真田氏は大伴氏の流れをくむもので真田地籍に私牧を持つ豪族で後に国牧をつくったものたちであり、滋野氏の系図のできる頃より多くみて200年、少なくとも150年ぐらい前に真田氏は存在していたと考えねばならない。」と真田氏の大伴氏からの発祥の可能性を示している。
大伴神社考 信濃大門
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東信史学会機関誌「千曲」第18号・第19号に掲載されている一志茂樹氏の「名族真田氏の発祥について」によれば、「真田氏は大伴氏の流れをくむもので真田地籍に私牧を持つ豪族で後に国牧をつくったものたちであり、滋野氏の系図のできる頃より多くみて200年、少なくとも150年ぐらい前に真田氏は存在していたと考えねばならない。」と真田氏の大伴氏からの発祥の可能性を示している。
沢内古沢家は私で十代、約三百年の歴史を刻んでいるが、最古の墓碑は延享五年(1748)。また初代と目される善兵衛について過去帳に「雫石邑生まれ」とある。
市川長野県立歴史館長は、「信州」という呼び方について「公式には『信濃国』を用い、信州はその略称として用いられていたのである。」と解説されている。
平成16年5月20日付の信濃毎日新聞文化面に市川県立歴史館館長の信州という地名は鎌倉時代に僧侶が普及という小論が掲載されていた。
信州という言葉の今日文献上確認される最古のものは、平安後期の治承3年(1179年)仁科盛家が八坂村の覚音寺に千手観音像を造立した。
下伊那郡下条村は、小さな村だが峯竜太で全国的に有名になった。その下条村陽沢(ひさわ)の鎮西地籍には、大山田神社という「『延喜式神祇名帳』延長5年(927)完成」に掲載されている神社がある。