天保八年 丁酉(ヒノトトリ・・・1837年の記録)
【巣郷本の記録】
☆疫病はやる ☆大飢饉の費用供出
凶作。年貢割合は元歩より四歩引きとなった。一歩銀(一枚で、1両の1/4・1,000文。約25,000円)が始めて沢内通りに来た。
疫病(高橋又郎氏・高橋克彦氏の父、医学博士によれば、栄養失調になっているから種々の病原菌に犯されやすかったと思う。特に疫痢、赤痢が蔓延したと思うということであった)が流行した。去年の申年(1837)より今年六七月まで餓死した者は何万人になるのか数えることが出来ない。この大飢饉にあたり沢内通りで費用の供出を仰せ付けられた人数は次の通りである。
月別アーカイブ: 2010年9月
津軽旅行と十三湊遺跡 古沢襄
秋になったら夏に続いて信州旅行をするつもりでいたが、急遽、それを変更して東北の津軽旅行をすることにした。東北の古代・中世史を考察するうえで、津軽地方の歴史は無視できない。個人的なことをいえば、父・古沢元は弘前の第八師団から満州のハイラルに渡り、侵攻してきたソ連軍と戦った。また第八師団は昭和天皇の皇弟・秩父宮少佐が大隊長として赴任している。二・二六事件の頃である。
「対馬国志(3巻)」の受賞 馬場伯明
長崎新聞(2010/9/3)に嬉しい記事があった。抜粋(抄録)する。《第13回日本自費出版文化賞の最終選考会で、大賞に対馬市厳原町の郷土史家、永留久恵さん(89)の「対馬国志」(全3巻)が選ばれた。同賞は自費出版の普及を目的に日本グラフィックサービス工業会が主催する。
「沢内年代記」を読み解く(二十七) 高橋繁
天保五年 甲午(キノエウマ・・・1834年の記録)
【巣郷本の記録】
☆作柄は上々の出来 ☆穀物の値下がる
作柄は上々の出来であった。七月より穀物の値段が下がった。白米は一升(1.5㎏)が二百文(約5,000円)から段々値下がりして、十月頃には六七十文(約1,750円)ほどになった。大豆は一升四十文(約1,000円)くらい、小豆は一升三十四五文(約、875円)籾稗一升十五文(約、375円)くらいになった。
安東氏の末裔の方?からのコメント 古沢襄
ブログを運営している楽しみは、その土地の歴史に携わるブログと出会うことである。信州・上田に縁がある私は真田一族の出自に関心があった。杜父魚ブログにいくつかの”真田もの”を書いてきた。これを読んだ信濃大門氏から「渤海国人船代」など貴重な真田一族の研究ブログを寄せて頂いた。「歴史と神話 杜父魚ブログ」に転載させて頂いてある。
「九戸政実の乱」と雫石・古沢理右衛門義重 古沢襄
十一回に及んだ「年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち」を書き終えてほっと肩の荷をおろした感慨に耽っている。年表だし、昭和文学史に関心がある人や長野県と岩手県の人たちにしか読まれないと思っていたので、杜父魚ブログに掲載するよりも、最初から「歴史と神話 杜父魚ブログ」に限定して掲載しようかと迷っていた。
「沢内年代記」を読み解く(二十六) 高橋繁
天保二年 辛卯(カノトウ・・・1831年の記録)
【巣郷本の記録】
☆七十七年来の寒波と豪雪 ☆飢饉の様相であったが上作 ☆盗人多くなる。
去年の寅年十一月二十三日 小寒入りした。その日から暖かく、二十七日地震があった。天候は良かった。二十八日より三十日まで大変に寒かった。
年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(完) 吉田仁・古沢襄共編
◇3月26日,古澤襄編『びしやもんだて夜話――古澤元・古澤真喜遺稿集』を三信図書から刊行
◇4月5日,『岩手日報』が夕刊1面トップで郷土作家古澤元を紹介
◇5月3日,古澤元没後36周年
◇『びしやもんだて夜話』の紹介、『読売新聞』読書欄をはじめ『秋田魁新報』読書欄,『信濃毎日新聞』文化消息欄,『京都新聞』コラム,『福井新聞』コラム,『南日本新聞』文化欄,『神奈川新聞』学芸欄,『河北新報』読書欄,『西和賀タイムス』などに掲載される
◇池田源尚が古澤元・真喜を回顧したエッセイ「碧き湖を求めた夫婦」が『富山新聞』『北国新聞』に掲載される
◇深山栄が「激動の時代生き抜く」を『北日本新聞』に発表
◇岡田光正が『びしやもんだて夜話』を紹介した「ある遺稿集」を『北海道新聞』に発表
◇『広報さわうち』が「古澤元の生涯」と題して特集
年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(10) 吉田仁・古沢襄共編
■1972年(昭47) 真喜63歳・襄41歳
◎1月9日,真喜は満62歳に
◎2月,真喜は小説300枚の構想をまとめ,「碧き湖は彼方」と題して書き始める
☆◎3月,襄が共同通信社の富山支局長に異動。家族も富山に移り、ふたたび真喜の独居生活が始まる
◎4月16日,武田麟太郎の葬儀委員長を務めた川端康成がガス自殺。真喜はショックを受ける
*5月15日,沖縄返還
*7月7日,田中内閣発足
◎10月4日,真喜が神奈川県相模原市の自宅で脳血栓で倒れ,左半身麻痺となる
◎☆11月中旬,真喜は襄の運転する車で富山市へ移り,市内の県立中央病院115号室へ入院
◎入院後,富山県内に住む『人民文庫』時代からの親友池田源尚が病院へ真喜を見舞う。27年ぶりの再会
年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(9) 吉田仁・古沢襄共編
☆3月,襄は埼玉大学を卒業、共同通信社に合格
☆4月4日,襄は共同通信社の仙台支社編集部員として上野駅から任地へ向かう。仙台で為田大五郎(河北新報社会部長)と再会
◇5月3日,古澤元没後11周年
☆10月,襄・恵子が入籍
*沢内村長に深沢晟雄、助役に佐々木吉男
年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(8) 吉田仁・古沢襄共編
■1947年(昭22) 真喜38歳・襄16歳
*1月18日,全官公庁労組が400万人を動員する2月1日のゼネストを宣言
*1月31日,GHQが2.1ゼネストの中止を命令
◇1月,真喜の実家である木村陶器店が再開
◇5月3日,古澤元没後1周年
*沢内村公選第一回村会議員選挙で北島暲男ら22人が当選
年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(7) 吉田仁・古沢襄共編
■1944年(昭19) 元38歳・真喜35歳・襄13歳
◇1月,武田麟太郎がインドネシアから帰国
◇このころ,元は小説「議事堂」を『正統』に発表
◇1月,『正統』は1月号を以て廃刊
☆3月,襄は愛日国民学校を卒業
◇3月,古澤一家は6年間住んだ牛込払方町から,弟行夫一家の住む中野区都立家政へ転居。借家には畑があって大井上康(おおいのうえ・こう)の“大井上農法”と呼ばれる“栄養周期適期施肥論”の研究・実践に努め,沢内村にも普及に赴く
年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(6) 吉田仁・古沢襄共編
■1940年(昭15) 元34歳・真喜31歳・襄9歳
*5月6日,菊池寛が提唱した文芸銃後運動の講演会が始まる
◇7月10日,内務省は左翼の出版物に対する弾圧を強化
◇7月,池田源尚・倉光俊夫が『麦』を創刊。古澤元も参加(作品発表は第2号から)。創刊号掲載の池田源尚「運・不運」は改造社の第12回文芸推薦賞を受賞,倉光俊夫は1942年11月『正統』に発表した「連絡員」で下半期の第16回芥川賞を受賞
年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(5) 吉田仁・古沢襄共編
■1934年(昭9) 元28歳・真喜25歳・襄3歳
◇この年,小石川の白山上に転居。元は「覚え書」に詩を書きつけている。
童 子(わらし)
我 三歳の子もてり/我 妻をめとりて四歳を経ぬ
我 二十八歳にして悲しみを知る
理は心の糧ならず 無謀こそ
年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(4) 吉田仁・古沢襄共編
■1926年(大15・昭1) 元20歳・真喜17歳
◇古澤元が盛岡中学を卒業。同期にのちの直木賞作家・森荘巳池、警視庁特高課長・伊藤猛虎がいる。弟の岸丈夫は肋膜で留年、そこで古津四郎(共同通信社記事審査室長)と同じクラス
◇3月、加藤新平(京大法学部教授)、佐々木吉男(沢内村助役)が新町小学校を卒業。親族の小田島房志(共同通信社政治部長)は新町小学校を卒業して日本大学に進学
年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(3) 吉田仁・古沢襄共編
■1912年(明45・大1) 元6歳・真喜3歳< ◎1月8日、木村由信と静司は協議離婚し,由信は旧姓・山崎に戻る ◎1月9日,真喜満2歳< *4月13日、石川啄木死去 *7月30日,明治天皇薨去,大正と改元 *9月13日,乃木希典と静子夫人は明治天皇大喪のこの日,目白の自邸で殉死 ◇11月3日,古澤元の父で古澤家8代目の行道が死去。享年32。戒名は凌霜院行山機道清居士。湯田で鉱山を経営していた行道は,鉱業資材を買い付けに馬で秋田県に向かったが,その途中,大金を狙った二人組に扼殺された。鉱山の争奪をめぐる犠牲とも言われる 続きを読む
年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(2) 吉田仁・古沢襄共編
■1868年(慶応4・明治1)
*1月27日・旧暦1月3日,戊辰戦争が起こる
*6月22日・旧暦5月3日,奥羽越列藩同盟が成立
*盛岡藩は維新政府軍に降伏
年表 古沢元・真喜夫婦作家を生んだ大地と人たち(1) 吉田仁・古沢襄共編
■1591年(天正19)
*南部藩の内紛「九戸政実の乱」起こる。二十六代南部藩主の南部信直は、豊臣秀吉の十万の軍勢の助けを借りて九戸城五千の守備軍を攻め、九戸政実一族を滅ぼす
■1601年(慶長6)
*和賀之郷を370年間支配した鎌倉ご家人の和賀氏が、秀吉に従わなかったため滅亡。一族の子孫は土着し、沢内村にもその流れが残った
■1625年(寛永2)
*古澤家の菩提寺となる曹洞宗・一点山玉泉寺が沢内村太田に開山
*助右衛門が湯田村左草を開く
山口多聞海軍中将のお屋敷で捕った雀の雛 古沢襄
東京市牛込区というのは、今では東京都新宿区になったが、戦前はお屋敷街として知られていた。私の家はお屋敷街とはほど遠い貸家が並んだ長屋。前の家は昭和文学史に残る文学雑誌「日暦」の編集者だった古我菊治さんが住んでいた。隣は文学雑誌「人民文庫」の主宰者だった武田麟太郎一家と縁が深い洋裁師の小母さんがいた。いうなら戦前の文学横町だったと言っていい。