古代朝鮮の高句麗、新羅、百済三国の歴史は、まだ未解明な部分が多い。ひとつには戦前・戦中の古代朝鮮史の研究が日本人研究者の手に委ねられ、一定の水準を保ちながら、それ以上のものになり得なかった事情がある。
扶余・高句麗・百済と新羅の建国神話 古沢襄
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古代朝鮮の高句麗、新羅、百済三国の歴史は、まだ未解明な部分が多い。ひとつには戦前・戦中の古代朝鮮史の研究が日本人研究者の手に委ねられ、一定の水準を保ちながら、それ以上のものになり得なかった事情がある。
天明元年 辛卯(カノトウ・・・1781年の記録)
①五月閏あり。米をはじめとする農作物の出来具合は悪かった。下作。課税歩合は安永四年の未の年より一歩(1%)安くなった。入石(他領地・秋田藩や伊達藩から買い入れた米)は一升あたり三十文(900円から1.500円)であった。「草井沢本」には入石は、清水カ野の久左エ文の家に入る。(取り扱った)と記録されている。
②五月二十七日大洪水になり、湯本の山室橋が流れ落ちた。橋架け替えの時、紛失して十四年もなる湯本の薬師如来像が、湯田の佐吉の子、巳之助という者によって山室の淵より拾い上げられた。(神社に奉納された。)