川の流れをみていると飽きない。40数年も大都会の人の渦ばかり見てきたから、悠然たる川の流れをみていると気持ちが和んでくる。もっとも利根川では、何やらけたたましい音をたてる水上バイクで遊ぶ若者が増えているので、もっぱら鬼怒川の方に出向いている。川を見ていると一時間ぐらいが、すぐ経ってしまう。
「日本の歴史と神話」カテゴリーアーカイブ
平将門の夢の跡 古沢襄
”春一番”どころか真冬に後戻りしたような寒風が吹き荒んだので、中村紀介氏と一緒に守谷城の「縄張り図」会に参加することが出来なかった。感染症に罹りやすい骨髄腫患者というのは行動を制約されるので厄介。
島津斉彬没後、百五十年 古沢襄
NHKの大河ドラマ「篤姫」が高視聴率を得ているそうだ。三年間の福岡支社長時代に年に二、三度は鹿児島に行っているのだが、天璋院が薩摩・島津藩の出であるとは、迂闊にも知らないでいた。関心はもっぱら西郷隆盛。
川中島の濃霧 古沢襄
板東太郎・利根川の橋を車で渡ると濃い霧に包まれることがある。川霧は幻想的だと呑気なことを言っておれない。老眼を見開いて対向車のライトを見定める苦労をしなければならない。私が住む茨城県の守谷市は秋から冬にかけて霧がよく発生する。
武田晴信正妻の涙 古沢襄
NHKの大河ドラマ「風林火山」は、武田・今川・北条の三国同盟を描いた。武田・北条の盟約を確かなものにするために晴信の長女を北条氏康の息子・新九郎(氏政)に嫁した。天文二十二年十二月に武田家から北条家の輿入れは、騎馬武者三千を含む一万余の行列だったという。
滋野一族・真田の不思議 古沢襄
NHKの大河ドラマ「風林火山」で真田幸隆が海野家(真田本家)の再興を武田晴信(信玄)に願い出るシーンがあった。その時に晴信は「真田は盲人の系統か」という趣旨の質問をしている。
真田三代と上田城 古沢襄
俗に”真田三代”という。真田幸隆、昌幸、幸村のことだが、昌幸が一番の策士だったようだ。幸隆は武田信玄の謀将として信玄の東信濃攻略に寄与したが、その居城は上田市の北東、旧街道に位置する小県郡真田町にあった。松尾城という。
信玄を変えた上田原の合戦 古沢襄
NHKの大河ドラマ「風林火山」の視聴率があがっているのではないか。杜父魚ブログに書いた武田信玄ものの記事が軒並み高いアクセスを得ている。信州の上田で少年時代を過ごした私にとって真田一族、村上義清、反骨の佐久衆、諏訪大明神に帰依した諏訪一族の興亡は人並み以上に関心があった。
聡明で誇り高きブリヤート娘たち 古沢襄
日本人の遺伝子には北方系と南方系の「二重構造モデル」がみられるという。日本犬の遺伝子にも「二重構造モデル」があるというのは興味深い。およそ一億二〇〇〇年から一億三〇〇〇年前にシベリアのバイカル湖周辺にあったブリヤート人が地続きのサハリン、北海道を渡って日本にやってきた。その数は七〇〇〇人前後という推定値がある。
南方熊楠と大英博物館 古沢襄
日本のマスコミが黙殺しているのか、見逃しているのか知らないが、「日本海(Japan Sea)」の表記が大英博物館から消え、韓国が主張する「東海(East Sea)」の表記が登場している。ブログが伝えている。
秩父宮とソバの話 古沢襄
明日の夜は奥羽山脈のふところに抱かれた西和賀で星を眺めることになる。NHKの朝ドラ「どんど晴れ」で、盛岡で見る星空は東京のそれよりも近くに感じられるという言葉があった。西和賀の星は盛岡の星よりも、もっと近くに感じられる。
勇将・村上義清の登場 古沢襄
東北のオーロラ記録 古澤襄
平将門と守谷城趾 古沢襄
千葉一族と東北 古沢襄
北上市が黒沢尻といった昔 古沢襄
北上線・・・岩手県の北上駅から秋田県の横手駅を結ぶ全長61・1キロのローカル線。単線だが春には萌えるような若葉の中を走り、秋には絶景の紅葉が楽しめる。大正年代の開業で、昔は”横黒”軽便線と言った。北上が黒沢尻と言った頃のことである。
全国の古沢姓を調べて十年 古沢襄
このところ各地の古沢姓の方からメールを頂くことが多くなった。古沢姓はそうは多くない。私の調査では岩手県の紫波町北田、西和賀町沢内、茨城県の下妻市古沢、八千代町、神奈川県の厚木市古沢、静岡県の御殿場市古沢、小山町、九州の大分県などに固まって古沢姓がある。
板東武者の栄枯盛衰を刻む平城 古沢襄
「茨城の城郭」という近刊書を頂戴した。茨城県には中近世の城郭跡が1000城あると聞いていたが、この本は140城を選んで、図や解説文で紹介している。昨年夏に探訪した牛久城趾も詳しく出ている。(茨城の城郭・図書刊行会)
下中弥三郎とケネディ返書 古沢襄
戦後出版界の重鎮だった下中弥三郎氏と会ったのは昭和二十六年頃であった。末次信成内相の秘書官だった鈴木憲一氏に連れられて、東京・八重洲口にあった平凡社に行った。当時の私は早稲田大学に入ったものの授業料を滞納して除籍寸前という状態にあった。
寒冷化説と温暖化説 古沢襄
一九七〇年頃には異常気象が頻発したことから、寒冷化、氷河期の到来を予測する危機説が流行った。人間がエネルギーを石油や石炭に頼っているかぎり、全地球的な大気汚染が増加する一方で、しかもそれは太陽の直達日射をさまたげ、寒冷化を招くという地球寒冷化説である。
水戸を愛した右翼の墓 古沢襄
暖かくなったら水戸にある盲目の右翼・雨宮菊夫氏の墓を詣でようと思う。旧制中学の一年生の頃、この人と一年間起居をともにした。坊主頭の村夫子然とした穏やかな人で、とても赤誠会八紘塾長とは思えなかった。
”怒りと鎮め”の名門・諏訪一族 古沢襄
NHKの大河ドラマ「風林火山」は武田晴信の信濃攻めに入った。天文十三年二月に二万の大軍を率いて御射山(みさやま)に陣を敷いている。
井上靖氏の「風林火山」が原本だから、作者不詳の「甲陽軍鑑」に拠るところが多い。しかし、信濃・諏訪氏攻めは歴史読本に連載された新田次郎氏の「武田信玄」の方が、より具体的で面白い。新田氏は諏訪に縁がある作家である。
北一輝の母・リク 古沢襄
北一輝は新潟県・佐渡が生んだ逸材。私は迂闊にも女房が北一族であること知らなかった。父親と母親が佐渡出身であることは、結婚前に知ったが、江戸時代に島流しになった罪人の末裔かもしれないと漠然と思った程度である。
東条英機は盛岡人にあらず? 古沢襄
盛岡の原敬記念館に行った時のことだ。廊下に各都道府県別の総理大臣の色刷りポスターが貼ってあった。原敬は米内光政と並んで、岩手県人が郷土の誇りとして敬愛してやまない。
「マッカラム・メモ」と日本 古沢襄
ブッシュ米大統領の共和党政権から民主党に政権が移るとすれば、米国のアジア政策がクリントン政権時代のように”中国重視政策”にスイッチ・バックするのだろうか。共和党政権が続く可能性もあるのだから、今から心配しても始まらないというのが、大方のノー天気な日本人の感覚であろう。
遺された北一輝の人形 古沢襄
妻の姉・凱子さんは伊豆で一人住まい。夏に愛犬チロを連れて二泊したことがある。その夜、ガラス箱に納められた人形が気になって、なかなか寝つかれなかった。何となく不気味は感じを与える。朝になって「人形が気になって眠れなかった」といったら「北の伯父さんから貰ったのよ」と姉は言った。
シベリアのソバ畑 古沢襄
ソバといえば日本固有のものだと思っていた。信州で少年時代を過ごした私は讃岐ウドンよりも戸隠ソバが好きだ。小諸郊外のパブリック・ゴルフ場によく出かけた私は、帰りには必ず小諸市内の名物ソバ屋に立ち寄った。信濃毎日新聞社の旧友が教えてくれた店だが、日本酒を傾けながらソバをつまみ代わりに遅くまで飲んだ。
広沢牧場と安倍一族 古沢襄
戦前は東京府立第一中学(日比谷高校)や第四中学(戸山高校)といったナンバースクールに人気があった。教育熱心な親たちは、一中の進学率が高い番町小学校に子供をいれた。作家・武田麟太郎の長男文章さん、次男穎介さん(いずれも故人)は、私の幼友達だが番町小学校に通っている。
渡来人の末裔・谷氏族 古沢襄
西日本にタニ(谷)地名が多く、東日本にサワ(沢)地名が多いことから、谷姓も西日本に多く、沢姓は東日本に多いという説を、日本の苗字の研究で第一人者である丹羽基二氏が実証的に示している。さらに谷姓は渡来族の末裔、沢姓は在来種の末裔という推論も下した。
壬申の乱と古事記 古沢襄
女系天皇論議で騒がしかった時に「古事記」を読んでいた。古事記は上中下三巻からなっている。私は、神々の夜明けと黄昏の壮大な叙事詩ともいえる上巻を耽読している。中巻は、初代・神武天皇の東征に始まり第十五代・応神天皇まで、下巻は第十六代・仁徳天皇から第三十三代・推古天皇で終わっている。また筆録した太安万侶の序文がついている。今度、初めて序文と下巻を読んでみた。
ツングースの渡来と北越 古沢襄
中越地震で孤立した山古志村をテレビでみた時に、ひょっとしたらツングース系の「古志族」の里ではないかと思った。ツングースは旧満州とシベリア東部・沿海州に居住した先住民族で、日本人のルーツに大きな関わりがある。
藍ちゃんは黒潮系 古沢襄
女子プロの宮里藍ちゃんほど皆から愛されている女性は珍しい。二十一歳になったというが、明るくめげない性格で米国の強豪に混じって頑張っている。チャラチャラ、ナヨナヨしないところが、またいい。両親の育て方がよほど良かったのだろう。
大津波で消えた十三湊文化 古沢襄
津軽・十三湖を訪れたいと思いながら果たせないでいる。十三湖・・・津軽人の太宰治は「「真珠貝を水に浮かべたような」と十三湖を表現している。中世、十三湖の開口部にある十三湊(とさみなと)が日本海の海運拠点として栄えていた。安東船と称した保有船は約700艘、遠くロシア沿海州との交易で往復したり、国内各港にも物産を運んでいた。常時出港中の船は500艘ともいわれた。七百年前にさいはての津軽の地で、華麗な文化が花咲いていた。
真田幸村の娘「お田の方」 古沢襄
茨城県と秋田県ほど関係の深いところはない。これは中世史の研究家が等しく感じているのではないか。私などは歴史学徒というのには程遠いのだが、見よう見真似で臆面もなく、中世の歴史資料を集めて、閑さえあれば読み耽っている。
真田幸村の娘たち 古沢襄
母系の血脈ということ考えている。天皇家のことではない。日本社会は父系が中心となってきたから母系を調べるのは、もともと障壁が高く困難をきわめる。名家の家系図をみても母系は総じて「女」としか表記されていない。その”女”が、どのような出身で、どのような影響力を次の世代に残していたのか、一人の人間を調べるうえで、実は重要なポイントとなると思っている。
「苗字必称義務令」という法律があった 古沢襄
<strong>姓なんて単なる符丁</strong>
丹羽基二さんは日本の姓氏について分かりやすく解説してくれる。私は姓なんて単なる符丁だと思っていた。明治維新で、新政府は徴税と徴兵のために「明治新姓」という制度を作った。明治三年の「苗字許可令」がそれだ。徴税と徴兵のために政府の方が必要なのに”許可令”とは笑わせる。農民は姓がなくても不自由しなかったから届け出は少なかった。