元文元年 丙辰(ヒノエタツ・・・1736年)の記録
①御代官 毛馬内権左エ門 五月沢内にて病死。御代りとして照井多左エ門様お出でになる。葬儀等の後始末は、どうなされたものて゛あろうか。代官毛馬内様の遺体は、ご自宅に運ばれたのであろうか。ご自宅が盛岡にあったとすれば一日がかりのはずである。越中畑の関所役人の妻が亡くなった時には関所役宅の近くに葬ったと伝えられ、お墓もあったということである。当時は土葬がほとんどであったということであるから、あるいは代官所のある新町のどこかにお墓がああるかもしれない。
「日本の歴史と神話」カテゴリーアーカイブ
東北の馬の由来はツングース系 古沢襄
岩手県沢内村には大正時代の末期まで、茅葺きの私の家があった。共同通信社の政治部長だった小田島房志さんが「君の家屋敷には大きなケヤキの木があって、その前を通りながら小学校に通ったものだ」と述懐していた。小田島さんは沢内村の出身、あだ名は”岩手牛”。私の遠縁に当たる。
「沢内年代記」を読み解く(八) 高橋繁
享保十二年 丁未(ヒノトヒツジ・・・1727年の記録)
①五月は 閏月であった。
②五月二十日 洪水。この洪水は、和賀川の支流である沢々から流れ出る小川だけであった。和賀川の本流は洪水にならなかった。現在の「ゲリラ豪雨」、部分的な大雨による洪水のように思われる。
③御代官 横沢武次右エ門 澤田十右エ門
学習院廃校を救った山梨勝之進学習院長 古沢襄
共同通信社の社長だった犬養康彦さんは「昭和20年の終戦の直後から、21年10月に安倍能成さんが院長に就任されるまで一年余りの間というのが、学習院の存続の危機の期間だったと思う。当時の山梨勝之進院長時代に、宮内大臣として石渡荘太郎さんという偉い先輩がいて、この石渡さんと山梨さんが中心になられて、学習院の歴史を護った」と回顧している。
不束かなれども宗任様の婦とされたし 古沢襄
松浦と書いて「マツラ」と呼ぶ。「マツウラ」ではない。「マツラ」の松浦姓には、古い歴史が存在している。「北条九代記」の巻・第十一、「蒙古来襲 付けたり神風 賊船を破る」の項に”弘安の役”の海戦の模様が出てくる。
無礼に怒った鎌倉武士の面目 古沢襄
日本の中世史で興味を惹かれるのは、朝敵・逆賊といわれた足利尊氏が開いた室町幕府である。この時代に中国大陸や朝鮮半島との交流が顕著となって、華麗な室町文化が花開いている。さらには、その前史となる鎌倉幕府とくに北条執権時代が面白い。
「沢内年代記」を読み解く(七) 高橋繁
享保二年 丁酉(ヒノトトリ・・・1717年の記録)
①この年、米の収穫高は平年の半分、「半作」であった。去年の「申」(サル)年は、米の実りが悪く(不塾)であったので、米の値段は上がった。1升(1.5㎏)は、40文(2.000円)から45文(2.250円)になった。《注:この年、大岡越前守忠相江戸町奉行に任命される。幕府、享保元年より「享保の改革」を開始している。「歴史年表」より》
幕末イタリア使節が見た日本の宗教 信濃大門
19世紀の初め鎖国日本では、長崎だけが唯一の外国との接点地で特にオランダとは密接な関係にありましたが、このころになると相次いで、長崎にアメリカ船、イギリス船が姿を見せるようになりました。
「世界」の「戦後保守政治の軌跡」 古沢襄
今では書店にいっても見かけない岩波書店の月刊誌「世界」だが、戦後の混乱期からベトナム戦争にかけて知識階級が一番読んだ雑誌ではなかったか。その「世界」の一九八〇年四月号から翌年の一九八一年四月号に十回にわたって「戦後保守政治の軌跡」と題した鼎談が連載された。
「沢内年代記」を読み解く(六) 高橋繁
正徳元年 辛卯(カノトウ・・・1711年の記録)
《注・宝永六年(1709年)1月10日、徳川五代将軍綱吉が没する。5月1日に、綱吉の兄綱重の子を養子にした家宣が六代将軍となる。「生類憐れみの令」は廃止された。「日本歴史年表」より》
①節気の「寒」に入って三十日間 少しの風も吹かなかった。 「少しの風も吹かない30日」の天候はどんなものか。晴れの日が30日続いたのだろうか。吹雪がないのだから、過ごし易かったと思われる。米や農作物の作柄に直接関係のない、冬季での無風であるのが残念であったに違いない。
「沢内年代記」を読み解く(五) 高橋繁
宝永元年 甲申(キノエサル・・・1704年の記録)
①「改元有テ宝永トナル」 年号が代わって宝永になった。幕府の財政は厳しさを増す一方であったので、勘定奉行、荻原重秀を中心に財政の建て直しに懸命であった。貨幣改鋳し、幕府役人の整理などを実施していることから、財政改革をし豊かな年にするという意味からの改元であるように思われる。
「沢内年代記」を読み解く(四) 高橋繁
元禄元年 戊辰(ツチノエタツ・・・1688年の記録)
①越中畑(えっちゅうはた・岩手秋田の県境・南部藩の関所があつた)の者たちが、謀議をこらし、山内村(秋田横手市)の南郷弟助という人の家に、夜、強盗に押し入った。
「沢内年代記」を読み解く(三) 高橋繁
延宝七年 己未(ツチノトヒツジ・・・1679年の記録)
①青倉山の岩穴
細内村(ホソナイ村)に、次郎右エ門という浪人がいた。この浪人、岩倉山(イワクラヤマ)に岩穴があることを知ると、
松本徹『風雅の帝 光厳』(鳥影社) 宮崎正弘
稀にしか味わうことの出来ない寂寥と哀切。読了ののち、一言の感想をいえば、歴史の寂しさ、絶望、生きとし生けるものの冷酷さと残酷さである。そして全編に漂う容易ならざる虚無。いやこれこそが日本人の情感なのか。
鎖国から開国、独立へ 平井修一
産業革命による近代化のツナミが極東の桃源郷のような小さな島国に押し寄せてきた。
徳川幕府の鎖国政策は元和2(1616)年、シナ(明)以外の船の入港を長崎・平戸に限定することから始まり、寛永12(1635)年にシナ・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、日本人の渡航と帰国を禁じたことでほぼ完成した。
日本古代史の扉を開く二つのニュース 古沢襄
古代史に関するニュースが相次いでいる。一つは推古天皇(6世紀末)から桓武天皇の時代(8世紀末)にかけての約200年間にわたる「天皇のよろい」の一部が京都府の長岡宮跡から発見された。
♪いい湯だなアハハン 平井修一
先日、久し振りに風呂に入った。と言ってもシャワーだが、43度のお湯を浴びて、全身をシャボンでしっかり洗った。20分もかかったから、風呂嫌いの小生にとってはほとんどショック体験である。
「沢内年代記」を読み解く(二) 高橋繁
〔延宝元年 癸丑・・・1673年の記録〕「沢内年代記」の記録の始まりである。
①「寛文十三年に年号が変わって延宝となった」と記されている。
癸丑(ミズノトウシ)は「十干十二支」の組み合わせの年であるから変わらない。年号が変わることを「改元」という。中国では漢の時代から皇帝の交代、治政方針の改正に合わせて改元された。
アイヌとの同化・融和・共生の歴史 伊勢雅臣
■1.「先住民族の権利に関する国際連合宣言」
平成20(2008)年6月6日、衆参両議院において、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で可決された。それは次のような文章から始まる。
縄文的なものと弥生的なものの二面性 古沢襄
現代では、松本秀雄氏がGm遺伝子の観点から、日本人の等質性を示す「日本人バイカル湖畔起源説」を提唱しており、また、ヒト白血球型抗原の遺伝子分析により、現代日本人は周辺の韓国人や台湾人よりも等質性が高い民族であるとの報告もある・・・かなり専門的な説明なので、私流に解説すると
卑弥呼を演じるのは女優・浅野温子が適役 古沢襄
古代出雲国を書いたら、産経新聞が邪馬台国の女帝・卑弥呼のことを書いていた。中国の歴史書「魏志倭人伝」に卑弥呼のことが出てくるが、「魏」にしてみれば東海の孤島の話である。伝聞によるものだろうから、短いつかみ所ない説文で終わっている。
「沢内年代記」を読み解く 高橋繁
「沢内年代記」は、岩手県西和賀町が「沢内通り」と呼ばれていた時代から伝承された年代記である。
1673年(延宝元年・今から337年前)から始まり、1900年(明治33年)まで記録されている。この年代記は、年毎の農作物の作柄や出来事を記した記録集である。
日本人のルーツ・ブリヤート人? 古沢襄
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に「ブリヤート人」の記載がある。まだ書きかけの記載なので、断片的なそしりを免れないが、北アジアの歴史に関心がある方は、一応は目を通しておく必要がある。
さらには司馬遼太郎氏の「ロシアについて 北方の原形」は、北アジアの歴史に関心を寄せた司馬作品の覚え書きとも言うべきものである。「坂の上の雲」や「菜の花の沖」を執筆した七年余り、司馬氏はロシアの特異性について考え続けたと言っている。
縄文土器が生まれる前の日本列島 古沢襄
多くの日本人のルーツはシベリアのバイカル湖周辺という北方系説が確立したのは、DNA鑑定が決め手となった。それまでは古事記や日本書紀で伝わってきた神々の神話の世界に起源を求めた南方系説が有力であった。
大彦命と建沼河別命が会津でめぐり合った 古沢襄
会津の名称について地元の人から「3世紀頃、四道将軍の大彦命が北陸道から、子の建沼河別命が東山道を遠征し、出会ったところが”相津”だった」と聞いたことがある。こういう話には滅法、取り憑かれる私なので古代史に詳しい学者の知見を調べまくった。
原始仏教考 信濃大門
一夜賢者の偈 「いま、この瞬間」の重要性については、エックハルト・トール著「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる(徳間書店飯田史彦監修 あさりみちこ訳)」を読むとかなり理解しやすいが、「いま、この瞬間」を再考すると気づきの原点の教えは、一夜賢者の偈であると改めてブッダの偉大さを感ずる。
大伴神社考 信濃大門
東信史学会機関誌「千曲」第18号・第19号に掲載されている一志茂樹氏の「名族真田氏の発祥について」によれば、「真田氏は大伴氏の流れをくむもので真田地籍に私牧を持つ豪族で後に国牧をつくったものたちであり、滋野氏の系図のできる頃より多くみて200年、少なくとも150年ぐらい前に真田氏は存在していたと考えねばならない。」と真田氏の大伴氏からの発祥の可能性を示している。
沢内‥雫石・檜山のルーツ探し 古沢襄
沢内古沢家は私で十代、約三百年の歴史を刻んでいるが、最古の墓碑は延享五年(1748)。また初代と目される善兵衛について過去帳に「雫石邑生まれ」とある。
公用語として使われていた信州 信濃大門
市川長野県立歴史館長は、「信州」という呼び方について「公式には『信濃国』を用い、信州はその略称として用いられていたのである。」と解説されている。
信州と信濃国 信濃大門
平成16年5月20日付の信濃毎日新聞文化面に市川県立歴史館館長の信州という地名は鎌倉時代に僧侶が普及という小論が掲載されていた。
信州という言葉の今日文献上確認される最古のものは、平安後期の治承3年(1179年)仁科盛家が八坂村の覚音寺に千手観音像を造立した。
大山田神社考 信濃大門
下伊那郡下条村は、小さな村だが峯竜太で全国的に有名になった。その下条村陽沢(ひさわ)の鎮西地籍には、大山田神社という「『延喜式神祇名帳』延長5年(927)完成」に掲載されている神社がある。
渤海国人船代 信濃大門
東御市(旧北御牧村)に両羽(もろは)神社という神社がある。 下之城という地籍にあり官牧のあった御牧台地の西斜面にある。
この神社には、木造の船代と呼ばれる人の木像がありこの人物はダッタン人(渤海国人)だといわれている。
海野郷戸主爪工部 信濃大門
海野郷は現在の東御市に古代にあった地名です。 今は東御市になったが、古代の旧東部町には「信濃国小県郡海野郷」という場所があった。 長野県で義務教育を受けた人ならば郷土史の時間に必ずこのことを知る機会がある。
龍国日本の”竜伝説” 古沢襄
麻布中学に合格した孫の竜太が、二泊三日で遊びにきて帰っていった。麻布中学校・高等学校は六年制の中高一貫教育校、ユニークな自由な校風に魅力がある。孫が大学をでて社会人になる頃は、私は八十五歳を越える。それまで生きられるか、それは神のみぞ知る。竜太の名付け親は芥川賞作家の辺見庸。
十三湊文化と蝦夷系譜の秋田氏 古沢襄
四年前の夏、「大津波で消えた十三湊文化」の雑文を書いたことがある。<<津軽・十三湖を訪れたいと思いながら果たせないでいる。十三湖・・・津軽人の太宰治は「「真珠貝を水に浮かべたような」と十三湖を表現している。中世、十三湖の開口部にある十三湊(とさみなと)が日本海の海運拠点として栄えていた。
白鳳時代からあった「秋田」の呼称 古沢襄
秋田美人、秋田犬などで知られる”秋田”の名なのだが、ウイキペデイアでは次のように紹介されている。
<<江戸時代の1604年 – 秋田市中心部の原形となる城下町久保田が建設される。 明治になると1869年(明治2年)6月17日 – 版籍奉還により、12代藩主佐竹義尭が久保田藩知藩事に就任する。1871年(明治4年)1月13日 – 久保田藩を秋田藩と改め、城下町である久保田城下を秋田町と改称。7月14日 – 廃藩置県により、秋田県・亀田県・本荘県・矢島県・岩崎県・江刺県が誕生する。11月2日 – 上記6県をあわせて秋田県が誕生する。>>
北上市が黒沢尻といった昔 古沢襄(再掲)
北上線・・・岩手県の北上駅から秋田県の横手駅を結ぶ全長61・1キロのローカル線。単線だが春には萌えるような若葉の中を走り、秋には絶景の紅葉が楽しめる。大正年代の開業で、昔は”横黒”軽便線と言った。北上が黒沢尻と言った頃のことである。
「前九年の役」と「沢内通り」に残る伝説について 高橋繁
「前九年の役」は、平安中期、陸奥国(岩手県・青森県)の豪族安部氏がおこした反乱(1051-62)である。1056年に源頼義が再征にのりだし、「乱」を鎮圧し、1064年京都に凱旋するまでの9年間を称してこう呼ばれている。
「大薬王樹」の効能 古沢襄
わが家の庭に枇杷の木が植えてある。もう十五年もたった古木なのだが、成長が早いので毎年、枝おろしに苦労している。実(み)がなると野鳥が飛んできて、あっという間に食い散らしていく。
「獣祖(じゅうそ)神話」と「感精(かんせい)神話」 古沢襄
参拝すると総理大臣になれる神社 古沢襄
三年前の六月のことになるが、四人の北朝鮮人が小舟で脱北し、青森海岸に漂着したことがある。佐渡島を目指し、携帯用の小型羅針盤を持っていたが、海流に流され青森海岸にまで持っていかれたと四人は言っていた。六月の日本海は穏やかな海になる。だが海流の速さは変わらない。
東北の古刹に眠る人民文庫作家たち 古沢襄
岩手県西和賀町の一点山玉泉寺に行くと「いろは香堂」という資料館に昭和の人民文庫に拠った作家たちの初版本が保存してある。その冊数は81冊。人民文庫は武田麟太郎が主宰したプロレタリア文学雑誌。高見順、新田潤、円地文子、田宮虎彦、渋川驍、上野壮夫、平林彪吾、古沢元、本庄陸男、井上友一郎、田村泰次郎、矢田津世子といった若き作家群が同人雑誌・人民文庫に執筆している。
「日高見国」は茨城県にあった 古沢襄
歴史好きの仲間と酒を酌み交わした時の話。たまたま古代史に登場する「日高見国(ひたかみのくに)」の話となった。日高見国は、天皇家の正史である『日本書紀』に出てくる。
メッケルの来日は功罪あい半ばした 古沢襄
司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」がNHKでドラマ化された。日露戦争で活躍した秋山好古、真之兄弟の話が中心となっている。その背景として明治陸軍の育ての親だったプロイセンのメッケル少佐の招聘について語らねばならない。
真田幸村の娘・お田の方の生涯 古沢襄
漫画家の杉浦幸雄氏は女性礼賛論者だった。叔父に当たるから私も影響を受けて女性礼賛論者。だが女性なら誰でもいいというわけではない。凜として気高さがある女性が好きである。そういう女性が少なくなった。
山屋大将の「円戦術」講義録を復刻 古沢襄
2005年4月27日の盛岡タイムスに「丁字戦法の真実に迫る 岩下秀男氏が山屋他人”海軍戦術”を復刻」という記事が出ている。1993年1月27日から盛岡タイムスは「山屋他人 ある海軍大将の生涯」という129回にわたる連載記事を書いている。
日本海大海戦の勝利の陰に 古沢襄
明治海軍は薩摩の西郷従道によって育てられた。兄の西郷隆盛が征韓論を唱えて下野して、薩摩に戻ったときに西郷従道は明治政府に留まっている。明治十年の西南戦争では多くの薩摩士族が西郷隆盛を慕って決起したが、西郷従道は陸軍卿代行になって明治政府の留守を守った。
「太平記」よりは「梅松論」 古沢襄
姓氏家系の研究では第一人者である丹羽基二さんの著書に「日本の苗字事典」がある。(一九九四年 柏書房)。これが平易な文章で読みやすく、実に面白い。普通の事典とは違って、苗字にまつまる歴史や意味を分かりやすく書いてある。
東日本は”沢地名”、西日本は”谷地名” 古沢襄
日本の苗字の研究で第一人者である丹羽基二氏は”沢”の字がつく姓について、東日本に多いが、西日本には少ないという説を唱えている。地名でも”沢地名”は国土地理院の20万分の1の地図で、岩手県に22カ所、長野県に24カ所があり、すでに廃れつつある小字(あざ)程度の小地名を入れたら、この十倍以上の”沢地名”があると推察している。
上田小県誌における深井氏 信濃大門
年号 記載内容
嘉暦4年 3月(1329) 守矢文書(諏訪郡宮川村・守矢真幸氏所蔵)
諏訪上宮五月會付流鏑馬之頭・花會頭与可為同前御射山頭役結番之事七番五月會分 右頭、海野庄内深井、岩下両郷地頭、深井海野次郎左衛門入道知行分
小県郡史における深井氏、深井海野次郎左衛門 信濃大門
天正年間から元和年間における深井氏 信濃大門
天正10年(1541)武田信虎勢は、小県郡を手にいれるため村上義清と手を結び、海野氏、祢津氏、矢沢氏を攻めた(海野平合戦)。
この時の海野氏の棟梁は、海野棟綱で、重臣は、深井右衛門尉棟廣であった。
「深井」と「御井」 信濃大門
■高麗系の帰化人と「御井」
「日本後記」の中に延暦18年12月5月の条に次の文章がある。
「信濃の国の人外従六位下、卦婁真老。後部黒足・前部黒麻呂・前部佐根人・下部奈弖麻呂・前部秋足・小県郡人無位上部豊人・下部文代・高麗家継・高麗継楯・前部貞麻呂・上部色布知等がせ調停に申し上げた。我々の祖先は、高麗人であります。推古天皇・舒明天皇の時(飛鳥時代593~641)に入国帰化しました。それから今まで、代々平民で、まだ高麗のときの姓を改めないで使っております。
古族深井氏の研究に当たって 信濃大門
長野県の東信地区の東部町は、平成16年の北佐久郡北御牧村との合併で東御市となった。旧東部町和(かのう)地区には、深い地籍があり、室町期には小県郡下の深井郷として存在していた。その後上深井、下深井地籍に区分されたが、明治になってからは小県郡和村となり字名で東深井、西深井になった。
九州南部に古沢氏がある謎 古沢襄
関東の中世史以降の合戦記録はかなり読んだつもりでいる。資料も少なからず持っている。だが博多に三年間も住んでいたのに九州の合戦記録は読んでいない。今になって迂闊だったと気づいても遅い。九州と沖縄が福岡支社長の守備範囲だった。とくに宮崎県には三ヶ月に一度は行った。
真田一族の出自の謎 古沢襄
二〇〇七年だから二年前になる。知将・真田幸村を生んだ真田一族の出自は研究家によって様々な考察が行われてきたが定説がない。私も調べたことがあるが、奥行きが深くて調べれば調べるほど暗中模索に陥った。サジを投げて「真田の不思議について」というエッセイを書いたことがある。
上田の松井須磨子の縁者たち 古沢襄
信州・上田には私の母の実家がある。旧姓は木村真喜、明治四十三年一月九日生まれ、小学校の卒業免状には長野県士族・木村真喜とある。今度の信州旅行では母の義妹である臼田絢子さん(旧姓は木村絢子)と十年ぶりに会った。
猛将・車丹波守と吉田城 古沢襄
水戸の吉田城・・・水戸駅から南に二キロ行ったところに遺構がある。歴史は古い。築城は坂東平氏(桓武平氏)国香流の吉田氏による。平国香の子孫は常陸平氏の嫡流として常陸大掾職に任じられた。職名から「大掾氏」(だいじょうし)と呼ばれている。
佐竹北家と東北の小京都 古沢襄
畏友・渡部亮次郎さんから「佐竹敬久氏は佐竹北家の末裔」と教えて頂いた。ウイキペデイアの記事も添えてある。またブログの読者からも同様のご指摘を頂いている。
水戸はご謀叛のお家筋 古沢襄
「水戸は代々ご謀叛のお家筋」という言葉がある。播州・赤松氏の血筋と思っている私は「ご謀叛のお家筋」は人ごとではない。興味があって水戸のことを調べた時期がある。父・古沢元は藤田東湖に惚れ込んで水戸にのめり込んだが、私は「ご謀叛のお家筋」に惹かれて水戸の資料集めをした。