■ロイター・コラムでKim Kyung-Hoon氏が伝えた中国玉林市の犬肉レストラン
[玉林(中国)25日 ロイター]ハンマーで殴られて気絶させられ、絞め殺される犬たち。その後、丸焼きにされ、吊るされた状態で店頭などに並ぶ。この光景は、中国南部の広西チワン族自治区玉林市では、夏の「風物詩」となっている。
■ロイター・コラムでKim Kyung-Hoon氏が伝えた中国玉林市の犬肉レストラン
[玉林(中国)25日 ロイター]ハンマーで殴られて気絶させられ、絞め殺される犬たち。その後、丸焼きにされ、吊るされた状態で店頭などに並ぶ。この光景は、中国南部の広西チワン族自治区玉林市では、夏の「風物詩」となっている。
昔から「ソバは東京、ウドンは大阪」といわれてきたから、東京生まれでいっぱしの”江戸っ子”気取りでいた私はソバ通のふりをしていた。
しかし小学校の頃はオヤジが近くのそば屋によく連れていってくれた。そば屋で食べたのは”うどんかけ”。それも「うどんは具のない”かけ”がいい」というオヤジの講釈付きだった。
「会社は社長、学校は校長ですべては決まる。本当の教育者でなく、校長試験に合格した教師を校長にするいまの、日本の文教政策を根本から変えない限り、いじめによる自殺もこんどの痛ましいことも、絶対になくならない。
■舒明天皇か蘇我蝦夷か? 斉明天皇説も…考古学者の意見分かれる
△645年の乙巳(いっし)の変で日本歴史から姿を消した古代大族・蘇我氏くらい興味を惹く氏族はない。戦時中は悪逆非道の徒として触れることさえタブー視された。
その地域に伝わる旧家からみつけた古文書を読み解く同好者で作った「史談会」に参加したことがある。一口に古文書というが、かなり熟達した読み手でないと読み解くのは難しい。史談会に参加してみたが私はお手上げ、結局は先達の解読を教えて貰うしかなかった。
シベリアのバイカル湖を二度にわたって訪れて以来、この地のブリヤート人が約二万年前にマンモスとともに極寒の時代を避けて東進して、一万三千年前には、シベリアのアムール川周辺に到達したとの仮説にとりつかれた。
司馬遼太郎は代表作「坂の上の雲」や「菜の花の沖」書きながら”北アジア史的なもの”を考え続けている。それが「ロシアについて 北方の原形」の作品になった。
日本人の遺伝子には北方系と南方系の「二重構造モデル」がみられるという。日本犬の遺伝子にも「二重構造モデル」があるというのは興味深い。およそ一億二〇〇〇年から一億三〇〇〇年前にシベリアのバイカル湖周辺にあったブリヤート人が地続きのサハリン、北海道を渡って日本にやってきた。その数は七〇〇〇人前後という推定値がある。
元旦から孫とワインを飲んで、いささか酩酊した。一眠りしたら夢の中にシベリアのイルクーツクに流れるアンガラ河という大河が出てきた。
河畔を散策していたらイルクーツ大学の女子学生に出会ったので、写真を撮らせてと所望したらポーズまでとってくれた。ロシア人の多くは人が良い。
「先輩としては藤田東湖、同輩としては橋本左内、ともにわしの最も尊敬した人である」・・西郷隆盛が遺した言葉である。西郷は安政元年(1854)4月10日に江戸・小石川の水戸藩邸に東湖を訪れている。
気品のある成年皇族の誕生で日本社会に与える影響が少なからずある様に思う。しかも自分の思うことをはっきりと言う若き佳子さまには誰もが好感を覚えたのではないか。
■なぜこれらの国々はかくも親日なのか 元大使がかたるインドやタイやトルコ、ミャンマーの日本への篤い思い
<日本戦略研究フォーラム編『愛される日本』(ワニブックス)>
先月22日の長野県北部を震源とする地震で断層系と地震の因果関係をあらためて知った。専門家は糸魚川静岡構造線(糸静線)の北部で断層が動いたと指摘している。
▼日本列島は北は北海道から南は九州まで自然の猛威に曝されている。これに九月になれば台風の直撃にも備えねばならない。二〇〇〇年の歴史の中で日本人は自然の猛威に耐え、これを克服する努力を重ねて生きてきた。忍従の歴史である。
北陸には五年間いたので一番印象に残っているのは、福井市の足羽山公園にある継体天皇の石像だった。日本の古代国家は畿内つまり近畿地方で天皇を頂点とする朝廷によって成立している。
昨夜は梅原猛氏の「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」を本棚から引っ張り出して再読している中に、スサノオの項に引き込まれ、いつしか夜が白々と明けてしまった。
日本古代史で「蘇我氏」という大族の興亡は謎に包まれている。「日本書紀」を読んでも蘇我氏の出自は明らかでない。むしろ大化改新で誅殺された蘇我入鹿のように”悪役”の最たるものとして描かれている。
古代出雲は謎に包まれている。戦後、歴史学会が唯物史観に染まった頃は、出雲神話を研究する歴史学徒はいなかった。古事記ですら”偽書”と切り捨てられた。
フランスのアンドレ・マルローは「二十一世紀は霊性の時代となるであろう」と言っている。
マルローは日本贔屓といわれたが、日本文化の根底にある「無常(precaire)」がわかるフランス人だった。戦後日本人よりも、もっと日本人らしいフランス知識人だったともいえる。
正月早々に三島由紀夫がノーベル文学賞の候補になっていたことが話題になっている。これは一九六三年のことだが、その五年後に川端康成が日本人初のノーベル文学賞を受賞した。
■小国の智恵といわれるが、亡国の自己保身
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に事大主義(じだいしゅぎ)の外交政策が詳しく述べられている。事大主義は、大に事(つか)えるという考えと行動を表す語。外交政策の1つでもあるという。
■韓国の屈折した負のスパイラル
軍用艦命名にあたり、縁起の悪い「敗軍の将」の名をかぶせる海軍は極めて珍しい。ドイツが輸出用に開発し、韓国で建造する214型潜水艦の4番艦で、8月に進水した《金佐鎮(キムジャジン)》はそうした珍例の一つ。
西和賀町の前町長・高橋繁さんから秋田・大曲の有名な花火師・今野義和さんの講演と実演の花火を見てきたと知らせがあった。
東北の歴史に詳しい繁さんは、「秋田に佐竹氏が移封になった時から、その路程の町々に花火があったが、大曲には雄物川の河港があり、西回りの航路があることから、京都の文化や原材料が手に入り易かったことから花火師が集まるようになった」との
今野義和さんの説を一歩進めて、常総の太守だった佐竹の鉄砲隊と火薬調合の職人集団に着眼している。
秋田のことは資料を持っているので、追々書くつもりだと言ったが「急増した秋田県の読者」を掲載したら何と四位で読まれている。”追々”どころではない・・・何か書かねばならぬ。
北の王者・安倍一族だったが、大将の安倍貞任は厨川の戦いで朝廷軍に敗れた。知将といわれた弟・宗任は許されて四国に流された。貞任の妹婿だった藤原経清は斬首の刑に処せられた。
<60年ぶりに社殿などを大規模に改修する「平成の大遷宮」が行われている島根県の出雲大社で、改修が行われた本殿に祭神の大国主命を戻す「本殿遷座祭」が10日夜、行われました。
梅原猛氏が「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」(新潮社)を発刊したのは2010年4月、出雲神話がフィクションの世界だと軽視され続けてきた歴史学会に一石を投じた。
シベリアのバイカル湖周辺は約二万年前に人もマンモスも住めない極寒の時代を迎えている。マンモスを狩りしていたブリヤート・モンゴル人は東進を始め、一万三千年前には、シベリアと支那の国境にあるアムール川周辺に到達し、さらに地続きのサハリン、北海道を経て、まず本州の津軽地方に姿を現した。
大阪冬の陣・夏の陣で徳川家康の心胆を寒からしめた真田幸村の活躍が目覚ましかったから、源義経と並んで現代でも人気がある。
だが、幸村の実像を伝える確実な史料は少ない。むしろ講談の主人公として広く有名になった面がある。たしかに幸村は戦国大名でもなければ、高野山下九度山村で長い浪人生活の末、大阪城に招かれた一人の傭兵隊長に過ぎなかった。
昨日(七月四日)は、「覆面パトカー」について書いたので、昨日の特筆すべき「正論」に関して、本日書くことにする。
なお、今日も、国民から疎まれこころよく思われないことを承知の上で、職務として「パトカーと分からないパトカー」に乗務し、その結果、交通の安全を確保し交通事故減少に貢献している若き警察官諸君に敬意を表します。
渡部誠一郎さんが亡くなった。畏友・渡部亮次郎氏の兄貴。誠一郎さんは私と同年、秋田の県紙・秋田魁新報の常務だった人だが、郷土史の造詣が深いのでかねがね敬意を払っていた。1990年に「中川重春・伝: 男鹿が生んだ英傑」の著書がある。
少し怖ーい話をすると、太陽黒点の減少で巨大地震が増加するという分析結果がある。2011年の東北地方太平洋沖地震は太陽黒点が少ない時期に発生している。つまり太陽活動が地球の内部にまで影響を及ぼしていることになる。
この一ヶ月間ほど真田幸隆、昌幸、幸村の”真田三代”の資料を読み漁っている。真田一族が活躍した信州の上田で少年時代を過ごしたので、大人になってからも機会があれば、真田文書をかき集めてきた。しかし調べれば調べるほど、真田の出自は謎に包まれている。資料を再読すると、以前は気がつかなかったことが分かる楽しさもあるのだが・・・。
古代の四世紀は空白だと歴史に関心を持つ人たちはよく言う。北アジア史にしか関心がなかった頃だから聞き流してきた。そんな私をみて「これを読んでみろ」と渡されたのが松本清張氏の「空白の世紀」。だが小説家が書く歴史物なのだから、パラパラとめくって放っておいた。
大型連休に入る。もっとも海外はゴーデンウイークではない筈だから、海外ニュースはいつも通り飛び込んでくる。国内の政局の動きは小休止となるのではないか。私にとっては、もっけの幸。日頃、書きかけだった歴史と神話の記事をボチボチ完成させようと思っている。
岸内閣の退陣以来、一つの内閣の終焉を数多く見てきたから、菅内閣の末路については、さほど関心を持たない。政権が末路を迎えると側近といわれる人たちは新聞を隠すようになる。忙しい総理のために・・と口実をもうけて差し障りのない切り抜きを作って総理室に届けるのが多くのパターン。
何年か前に安倍晋太郎氏が北の王者・安倍一族の末裔だと書いたことがある。グーグル検索で「安倍晋太郎」と入れると安倍家の系譜にそのことが出ていた。晋太郎氏は元毎日新聞の政治記者、共同の清水二三夫氏、日経の大日向一郎氏と親しい仲であった。大日向氏には「岸政権・一二四一日」の著書がある。
昨年は政権後退の様相をよくよく見せつけられ、読ませていただきました。暮れの通信では西村慎悟氏の「忘れ得ぬ言葉よ」古澤先生の「日本政治は世界政治のローカル」「トイレの神様を聞く」が心に染みました。
明治六年 癸酉(ミズノトトリ・・・1873年の記録)
【巣郷本の記録】
酉より(この年より)地券さらにお調べ始まった。(明治五年の地租改正に伴い、政府が土地所有者を確認調査をする必要があった。この調査によって土地所有者に土地所有権を証明した証券を与えた。この券記載の
地価に基づき地租が賦課された。)
正月の台風一過、わが家は五日から老夫婦と犬一匹の生活に戻った。十六畳のリビングが急に広くなった感じがする。庭に面した日当たりのいい所にソファーが置いてある。十五年以上も使っているので、買い代えた方がいいのだが、チロ、バロン一世、バロン二世が使うソファーなので、そのままにしてある。
桜井よしこ氏が寄稿している「週刊ダイヤモンド」に細川護煕元首相のブレーンだった田中秀征氏も寄稿している。その論は先見性に富んだもので、教えられる事が多い。長野県人だが、この土地から幕末の佐久間象山のような鬼才の兵学者・思想家が生まれている。
中国人船長を国内法を無視して釈放してしまった事件に関して、大津事件が思い起こされている。来日中のロシア皇太子を襲った凶漢に対して、政府はロシアを怖れて、死罪を求めるが、国内法を守って、それに待ったをかけたのが大審院(最高の司法裁判所)院長・児島惟謙(これかた)だった。
長崎新聞(2010/9/3)に嬉しい記事があった。抜粋(抄録)する。《第13回日本自費出版文化賞の最終選考会で、大賞に対馬市厳原町の郷土史家、永留久恵さん(89)の「対馬国志」(全3巻)が選ばれた。同賞は自費出版の普及を目的に日本グラフィックサービス工業会が主催する。
東京市牛込区というのは、今では東京都新宿区になったが、戦前はお屋敷街として知られていた。私の家はお屋敷街とはほど遠い貸家が並んだ長屋。前の家は昭和文学史に残る文学雑誌「日暦」の編集者だった古我菊治さんが住んでいた。隣は文学雑誌「人民文庫」の主宰者だった武田麟太郎一家と縁が深い洋裁師の小母さんがいた。いうなら戦前の文学横町だったと言っていい。
天孫族に抵抗した北の王者の頭領・安倍貞任は、厨川柵(盛岡市)で戦死して一族は四散したが、その末裔は歴史に名を残している。私の小学校は東京・新宿区の愛日小学校といったが、仲の良い同級生に広沢中任(なかとう)さんがいる。兄は高任(たかとう)さん、弟が末任(すえとう)さんの三人兄弟。
信長が合理主義の近代をひらき経済自由主義者だったという妄説を駁す。明智光秀は謀反人ではなく義挙をとげた悲劇のヒーローではないのか。
正統とは何か、歴史とは本質的にいかなる存在か。なぜ正統なる価値観が重要なのか?歴史と正面から向き合い、国家の自尊をもとめて行動する知識人=井尻千男氏は主権回復国民運動の中枢を担い、歴史認識の正論を国民に問うために戦い続ける。
龍馬が幕末維新の「明」なら、同じ土佐藩出身の岡田以蔵は「暗」だろう。二人は青雲の志を抱いて国を後にし、同士として交際したが、龍馬は「維新の奇才」として讃えられ、以蔵は「人斬り以蔵」として軽侮され、没後145年の今でも以蔵を讃える人は少ない。
天皇、皇后両陛下主催の春の園遊会でフィギュアスケートの浅田真央選手が「このたびは本当におめでとう」と天皇陛下から声をかけられた。オリンピックの大舞台で緊張もせずに銀メダルを手にした真央ちゃんが、「はい」を四回、「ありがとうございます」を四回繰り返しただけ。
岩手県沢内村には大正時代の末期まで、茅葺きの私の家があった。共同通信社の政治部長だった小田島房志さんが「君の家屋敷には大きなケヤキの木があって、その前を通りながら小学校に通ったものだ」と述懐していた。小田島さんは沢内村の出身、あだ名は”岩手牛”。私の遠縁に当たる。
共同通信社の社長だった犬養康彦さんは「昭和20年の終戦の直後から、21年10月に安倍能成さんが院長に就任されるまで一年余りの間というのが、学習院の存続の危機の期間だったと思う。当時の山梨勝之進院長時代に、宮内大臣として石渡荘太郎さんという偉い先輩がいて、この石渡さんと山梨さんが中心になられて、学習院の歴史を護った」と回顧している。
松浦と書いて「マツラ」と呼ぶ。「マツウラ」ではない。「マツラ」の松浦姓には、古い歴史が存在している。「北条九代記」の巻・第十一、「蒙古来襲 付けたり神風 賊船を破る」の項に”弘安の役”の海戦の模様が出てくる。
古代史に関するニュースが相次いでいる。一つは推古天皇(6世紀末)から桓武天皇の時代(8世紀末)にかけての約200年間にわたる「天皇のよろい」の一部が京都府の長岡宮跡から発見された。
現代では、松本秀雄氏がGm遺伝子の観点から、日本人の等質性を示す「日本人バイカル湖畔起源説」を提唱しており、また、ヒト白血球型抗原の遺伝子分析により、現代日本人は周辺の韓国人や台湾人よりも等質性が高い民族であるとの報告もある・・・かなり専門的な説明なので、私流に解説すると
古代出雲国を書いたら、産経新聞が邪馬台国の女帝・卑弥呼のことを書いていた。中国の歴史書「魏志倭人伝」に卑弥呼のことが出てくるが、「魏」にしてみれば東海の孤島の話である。伝聞によるものだろうから、短いつかみ所ない説文で終わっている。