9635 二・二八事件と李哲朗の日本留学  古沢襄

台湾の高雄市に民衆日報という新聞社があった。外務省の記者クラブにいた頃、外国人記者とのパーテイで痩せた台湾人記者が民衆日報東京支社長の肩書きの付いた名刺を出して近づいてきた。人なつっこい青年、それが李哲朗。
それから記者クラブによく遊びに来て、ご馳走しますと新橋駅前にあった蘭園という中華料理店に案内された。聞いてみると生粋の台湾人。台湾独立運動のメンバーかと疑ったが、そうではなかった。父親は台湾北部の基隆で小さな貿易商だったが、息子の李哲朗を日本に留学させていた。
早稲田大学の夜間部に籍をを置いた李哲朗のために民衆日報東京支社長の肩書きの付けていた。何となく学生っぽい頼りない風情の李哲朗だったから、兄貴分気取りで夜の新宿を連れ回し、酒の相手をさせるのにあまり時間がかからなかった。
「われわれ中国人・・・」と李哲朗が言ったことがある。大人気なかったが「何が中国人だ!台湾人の誇りを忘れたのか」と怒ったこともある。「私は本省人(台湾人)です。外省人(在台中国人)ではありません」と悲しそうに李哲朗は二万八千人が処刑された二・二八事件のことをボソボソと語った。
基隆の弾圧は激しかったという。ウイキペデイアには「蒋介石の国民党軍は基隆で街頭にて検問所を設け、市民に対し、北京語を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を本省人の手に刺し込んで縛って束ね、「粽(チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだ」と書いている。
李哲朗一家が台湾南部の高雄市に移ったのは、二・二八事件の影響があったのだろう。親日家とみられた台湾人は狙い撃ちで処刑の対象になった。
「国民党は怖いのです」と李哲朗は正直に言った。それでも父親は李哲朗の日本留学を薦めた。多くの台湾人が弾圧に屈服を強いられながら、それでも日本に対する親しみを持っていたことは、当の日本人は気がついていない。
李哲朗は「われわれ中国人」とは二度と言わなくなったが、私も「台湾人の誇り」と説教したことが恥ずかしくなった。李哲朗は早稲田を卒業して、台湾に戻って結婚したが、「新婚旅行で東京に行きます」と国際電話が掛かってきた。
「ついてはお宅に泊めていただきたい」
女房は「お金持ちなのだからホテルに泊まればいいのに」とブツブツ言う。それでも新婚夫婦を嫌な顔をせずに迎えた。
後で知ったのだが、本当に親しい仲だと自宅に迎えて泊めるのが台湾人の風習だという。もう四十年以上も昔の話だから、李哲朗も古希を越えたのだろう。健在ならば高雄市を訪れて一泊させて貰うつもりなのだが・・・。
■二・二八事件(にいにいはちじけん)=1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、当時はまだ日本国籍を有していた本省人(台湾人)と外省人(在台中国人)との大規模な抗争。約 40 年後、戒厳令の終了と政府側の遺族への謝罪により漸く終結した。本省人はこの事件を台湾大虐殺と呼んでいる。
1947年2月27日、台北市で闇菸草を販売していた本省人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。
この事件によって、約 28,000 人もの本省人が殺害・処刑された。
国民党軍の一部は一般市民にも無差別的な発砲を行っている。基隆では街頭にて検問所を設け、市民に対し、北京語を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を本省人の手に刺し込んで縛って束ね、「粽(チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだという。
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