1194 屋山太郎氏の辛口評論 古沢襄

政治評論家の屋山太郎氏を初めて知ったのは四十年近い昔の話である。福田赳夫氏が作った清和会の担当記者団で知り合った。ローマ特派員から帰国したばかりの屋山氏は今と変わらないベランメー調で歯切れのよい政界批判をやってのける。
岸内閣以来、政界のドロドロした水に漬かってきた私にとって競争通信社のこの男に新鮮な魅力を感じた。テレビを含めて三十人近い福田記者団だったが、現役で一番古手だった私が一応は”まとめ役”のようなことをやった。
その中でも屋山氏や私のほかに渡部亮次郎氏(NHK・外相秘書官)と金巌氏(毎日・安倍晋太郎秘書)の四人が古参株。四人とも健在である。赤坂プリンス・ホテル旧館にあった清和会の事務所の部屋で屯した日々が懐かしい。この頃、森喜朗氏や加藤六月氏らが一年生議員として国会の赤絨毯を踏んでいる。
現役時代の私は清和会にドップリ漬かる気にならなかった。ある意味では派閥記者としては失格だったと思っている。岸元首相にある程度、食い込んだので岸派時代の福田氏が派閥のプリンスと言われながら、何となく影が薄い印象を持ったまま清和会担当になったせいである。
岸派から清和会に加わらなかった川島正次郎、椎名悦三郎、赤城宗徳氏らに関心があったこともある。さらには福田氏の仇敵だった田中角栄氏の秘書だった麓邦明(共同・故人)、早坂茂三氏(東京タイムズ・故人)と親しかったことも影響していた。旧池田派の大物女性秘書官だった辻トシ子さんのところにも足繁く通っていた。
間もなくデスク入りしてチャンスがあったので地方の支局長に出た。三十九歳のことである。田中派の担当記者だった後輩の松崎稔氏(共同専務理事・故人)から「福田は総理になれないから正解」と言われたものである。氷見のロータリー・クラブで講演を頼まれた車の中で田中内閣の誕生をラジオで聴いた。
政治部の第一線を退いてから日本の政治を違った視点でみる癖がついた。日本の政治は世界のローカルに過ぎない。やはり政界の中で日本の政治をみるのではなくて、国際政治の中の日本、国際経済の中の日本という視点が必要である。
その時になって、若干、斜に構える屋山氏に魅力を感じた謎が解けた感じを持った。屋山氏は私とは正反対に、あれから政界の水にドップリ漬かってきたが、初心を忘れていない。だから辛口で思い切った発言をすることができる。
今の私は朝四時起きしてインターネットで世界の英語圏新聞の見出しを読むのが日課となった。日本の新聞も地方紙にいたるまでインターネットで見出しだけは見ている。あとは半世紀に近い自分の経験からニュース判断をするようにしている。幸いに時間だけはいくらでもある。
骨髄腫に罹ってからは感染症を怖れて会合には出なくなった。それだけに他人の言葉に煩わされ、迷うこともなくなった。あるいは判断を間違うこともあるかもしれない。それは老人の戯言として許して貰うしかないが、このスタイルは変えるつもりはない。幸いにして私のブログには年間で百万件に近いアクセスがある。屋山氏には及ばずとも、せいぜい独自の切り口で杜父魚ブログを続けるつもりでいる。

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