1951 ルーツを求めて20年(1) 古沢襄

人の血脈というものが持つ不思議さに惹かれて20年近くになった。口の悪い友人に言わせれば「島国の日本だから遡れば大概が天皇家の一族になるよ」という。それはそうなのかもしれない。先祖のルーツを辿ると「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」の姓氏のどこかに突き当たる。だが、そんなことをいえば人類はアフリカが発祥の地だから黒人だったということになる。
原始時代の4000年昔のことまでは、とても手が届かないが、少なくとも300年昔のことぐらいなら調べようがある。子が生まれ、孫ができて、そろそろ80歳に手がとどくが、私は三代九〇年という数え方をしている。一人の人間が成人して社会で活躍するのはほぼ三〇年と数えている。90歳まで生きるとか、死ぬとかいう話ではない。
300年昔といえば江戸城の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩が吉良義央に切りつけ、無念の切腹を遂げたのが、元禄14年2月4日(西暦1701年3月3日)のことである。私の先祖は、ほぼこの頃、南部領の雫石邑から沢内邑に移住している。初代から数えて私で10代、300年の歳月が経った。
300年昔までのことは、菩提寺の過去帳や南部藩の記録、旧家に伝わる古文書などから概略を掴むことが出来た。そうなると欲がでるもので、さらに200年先にまで遡ろうとしている。北条早雲が小田原城に入ったのが明応4年(1495)、関東はこの後北条氏の台頭で群雄が割拠し争った。
沢内・古沢氏のルーツを求めていたら常陸国に川尻・古沢氏が存在したことが分かった。さらに鬼怒川東岸の下妻城近くに古沢邑があることも知った。最近のことだが、この古沢邑から江戸時代に有力な古沢氏が生まれていたことも分かった。仮に下妻・古沢氏としておこう。
さらに200年先まで遡るというこの作業は、実は気が遠くなる仕事である。
日本の「苗字」について大家である丹羽基二氏は、苗字の八割以上が地名から来ると言っている。古沢の苗字のルーツを求める最短距離は「古沢邑」を発見することにある。ところが東北には古沢邑はほとんど見当たらない。
関東にあるのは常陸国の古沢邑と相模国の古沢邑(厚木市郊外)。全国的にみても町村合併などで古沢邑の地名が少なくなった。地名から姓氏のルーツを求めることも、だんだん難しくなるのではないか。
古沢邑を探し当てると、それが東北の古沢氏と繋がりがあるか、という調査になる。各地の教育委員会に調査協力をお願いしたり、古沢姓が固まって存在する村や町にも出掛けて早くも十年以上の歳月が経った。
各地にある墓にもずいぶんと多く出掛けた。墓に刻まれた紋章がひとつの手懸かりになる。こっそりと墓の紋章の拓本をとったこともある。丹羽基二氏は日本の家紋についても詳しい。家紋の歴史を調べるだけで一つの研究書ができる。
しかし個人の力では限界がある。調査の過程で多くの人から協力を得たのが大きかった。さらにいうならインターネットによる情報伝達の影響力である。私と同じように自分のルーツを求める人たちが多いという実感がある。(つづく)
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