桜前線――春の訪れをつげる,いい言葉だ。戦後になって使われ始めたらしい。九段の靖国神社,能楽堂のかたわらにある一本の染井吉野が,東京の桜の開花日,つまり桜前線の到達を知らせる。ほかの桜がどんなに咲いても,この木の蕾がほころばなければ東京に春はやってこない。
この季節になると必ず思い出す逸話がある。謹厳な教育者・キリスト者として知られる新渡戸稲造が,あるとき宴会に出た。芸者が三味線を抱え,
♪咲いた桜になぜ駒つなぐ
駒が勇めば花が散る~
と唄うと,感動した新渡戸は,
「日本にもこんないい唄があったか。もっと聞かせておくれ」と懇望した。芸者はお安いご用とつぎつぎに都々逸を繰り出すけれど,
「だめだめ。いいのはひとつもない」と”咲いた桜”の唄をいつまでもほめていたという。
ただでさえ短い花の生命,なぜ気の荒い若駒をつないで散らせるようなむごい仕打ちをするのかというこの唄は,江戸時代も初期,寛永(一六二四~四四)のころに後水尾院の命で収集されたといわれる民謡集『山家鳥虫歌』にある。よほど日本人の情感に訴えるのか,都々逸以外にもよく唄われる。
世の中にたえて桜のなかりせば
春のこころはのどけからまし
と同様の心情を詠んだのは平安時代の在原業平だった。散り急ぐ桜の花に気をもむやさしい日本人の心は古来かわらないようである。
先日,東京・江東区にある芭蕉稲荷にもうでた。深川芭蕉庵の跡だといわれる。かつて下総の行徳(千葉県市川市内)から塩を運ぶために掘削された運河である小名木川が隅田川に注ぐところ,その万年橋のたもとにある。
こぢんまりとした祠で,一本の桜の木が隣家の壁に身をすぼめて頼りなげに伸び,その幹に芭蕉の一句を記した木札がくくりつけられている。
さまざまな事おもひ出す桜かな
俳聖芭蕉の名がなければ,門外漢にはなんの変哲もない句に思える。
芭蕉にはこんな句もある。
花の雲鐘は上野か浅草か
花はもちろん桜。深川の芭蕉庵から上野や浅草の花の盛りが薄桃色の雲のごとくに望まれる。寛永寺か浅草寺の鐘の音も,おぼろに響いてくる。この句も俗っぽいとはいえるが,春風駘蕩たる花のお江戸を彷彿させてあまりある。
芭蕉庵から桜を求め,隅田川沿いを吾妻橋へ。浅草を横目に見て,ビール会社の丈高いビルをあおぎながら水辺の散策を楽しみ,隅田公園をさらに向島へと歩いてみた。
そのうち腹のムシが鳴き出した。ここは花より団子である。さいわい吾妻橋から二十分ほどそぞろ歩いた墨堤沿いに,長命寺の桜餅で有名な老舗”やまもと”がある。行ってみると,はとバス観光の一団なのか,店頭には着飾った年輩の女性たちがたむろしている。人混みをかきわけるようにして十個入り千八百円なりの包みひとつをお土産に買い求め,そうそうに道を隔てて隣りあう,これも隅田川名物”言問団子” の店へ移る。
こちらは空いている。腰をおろし,ゆっくりと渋茶をすすりつつ甘い団子をほおばる。白餡,小豆餡,求肥に味噌餡を包んだ青梅の三個ひと皿五百円なり。
いちいち値段を気にするあたり,わが風流心もなさけない。空腹はおさまったが餡団子三個は,さすがに胃にもたれる。風流はむつかしい。
船つけて買ひにあがるや桜餅
秋出水言問団子休みけり
この両句は近代の久保田万太郎。
桜の花に心を悩ましたいにしえの在原業平は,こう詠んだ。
名にしおはばいざ言問はん都鳥
わが思ふ人はありやなしや
もちろん当時,団子屋はなかった。万太郎と業平のあいだにもなんの関係もないが,思えば向島は,文人墨客が訪れ,あるいは住みついた風雅の里だった。
現在は長命寺も鉄筋コンクリートの無粋な建物になり,墨堤上には高速道路がおおっている。隅田川も戦後の一時期にくらべて綺麗になったとはいえ,白魚の泳ぐ清流のイメージからはほど遠い。
桜の花があっというまに散るように,時とともに事物はうつろう――と,危うく安っぽい感傷におちいりかけたぼくの心をとらえて離さないものが眼前に現われた。墨堤の欄干に羽根を休める都鳥(ユリカモメ)の,夕陽に染まった真っ赤な姿である。
散るものは散れ,変わるものは変われ。いや,変わるものはよく変えていけばいいのだ。(杜父魚文庫より)
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2826 咲いた桜になぜ駒つなぐ 吉田仁
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