3667 大雪でお亡くなりになった方々の冥福を祈り 福島香織

■先々週あたりから、政治部は「政局が緊迫」しているということで、新米政治部記者(といってももう9カ月)も、否応なく巻き込まれている。勤務時間朝8時から25時まで、中国の汗血工場か、ガレー船かという忙しさである。
当然私だけでなく、私以上に同僚、そして他社の記者たちが働いていて、平河の記者クラブでは「血反吐吐く」とかいううめき声が他社のブースから聞こえてくる…。もっとも負けると分かっていても、炎天下の戦場に行かねばならない議員の先生方の苦悩とストレスに比べれば新聞記者の方がだいぶんと気楽だが。といった内輪話は、今度にして、今日は、産経以外は一面に記事を掲載していた大雪山系の遭難記事についてである。
■私の学生時代のアルバムに、ガスで真っ白になったトムラウシ山頂でポーズをとっている写真がある。いやあったはず。アルバムは奈良の実家にある。とにかく寒く、吹きすさぶ風の中で亀の子のように首を縮めているような写真ではなかったか。アルバムにはルートも状況も全部メモしてはさんでいるはずなので、実家に帰れば、記憶ももっと蘇ると思うが、当時はとにかくパーティリーダーの後ろをついていくのに必死で実は、頭の中もガスがかかったように真っ白だった。寒くずぶぬれの、山登りを始めて4カ月目の19歳の夏。
■きょう、夕刊デスク当番(福島は隔週で土曜夕刊担当もやるようになりました)なので、午前7時半から本社編集局で、久しぶりに体を休めながらゆっくり新聞を読んだ。産経は夕刊は大阪エリアだけなので、土曜夕刊デスクというのは、風呂屋の番台のように妙に時間がある。
■大雪山系の遭難記事をよみながら、断片的に、あ、この地形、この地名知っている、と少しずつ思い出し、私と同じ場所を歩いた人たちが亡くなったんだなあ、と思うと急に旧友の死を知らされたような気持ちになった。土曜夕刊時間帯の編集局がひまでよかった。こいつ、なんで泣いているのかと奇異に見とがめる人もいない。
■各紙とも、ツアー会社やガイドの判断力を批判しつつ責任論や中高年登山の危険性とか問題点を指摘、亡くなった方々の登山歴や家族に残した言葉などを紹介するという構成。これはオーソドックスで当たり前なのだが、おそらく記事を書いている記者の中には同じようにトムラウシを強い風の中、のぼった人もいるのではないかと思う。映画になった「クライマーズ・ハイ」に出てくる主人公の新聞記者も山好きだったが、新聞記者のワンゲル、山岳部出身率は意外に高いから。
■そういう記者は、定番の記事を書きながらも、いろいろなことを考えたかもしれない。たとえば、自分の一瞬の判断ミスで多くの人の命を心ならずも失わせてしまったガイドさんの背負う十字架の重さとか。幸いにも命を取り留めた人たちも、もう二度と愛した山々に登ることができないかもしれないトラウマだとか。
■高校卒業時には受験勉強で甘やかされた体重が60㌔をこえ(今は52㌔、念のため)、到底、山登りや苛酷な運動に耐えられるような根性のないと思われた私が大学でワンダーフォーゲル部に入ったときは、当然、両親は大反対だった。
大雪山系を10日かけて縦走する夏合宿のときも、親は、引率者(パーティリーダー)が弱冠22歳の大学の先輩であることに青ざめたものだった。親があまりにもうるさいので、「万が一の場合があっても、山で死ぬことは本望です。パーティリーダーや生き残った人たちを決して責めないようにお願いします」と一筆したためて出かけたのを覚えている。
■そう書いたのは夏山登山で事故なんておこるわけがない、と思っていたからなのだろうが、今思えば、22歳のパーリーなんて、人の命に対する責任を負える年齢じゃないし、毎週末に山を登っていたとしても、けっして十分な山岳経験だとはいえないかもしれない。
しかも連れて行くのが、山を始めて数カ月、というひよこばかり。ついでにいうと、あの頃の阪大ワンゲルは前年か前々年に部から遭難死者を出して、部存亡の危機を漸くクリアして本格的活動再開に入ったころではなかったっけ?記憶がどうも定かではないが、ひょっとしたら、事故が起これば、新聞に厳しく批判記事がでるケースのひとつであったかもしれない。
■事故を検証し、その責任を追及し、負うべき責任は負い、反省し事故再発を防ぐように世論を喚起するのが新聞の使命なのだから、一連の記事の書き方も社説も正論である。ひょっとしたら、捜査が進むにつれてツアー会社やガイド側にさらに重大な過失があらわれるかもしれない。
■ただ、新聞記者という立場をはなれて、未熟ながらも山が好きだった、という一個人の思いをいえば、どんなに注意してもどんなにベテランでも、簡単な夏山でも、山岳事故はおこるときはおこる。それが大自然を相手にするということなのだと思う。だからといって、高齢者だから、技術不足、経験不足だからといって、山への門戸を閉ざしてほしくもない。そういう未熟者にも山を教えてくれるトレッキングツアーはありがたい。
■マラソンやトライアスロンは自分の体力の限界を感じたら途中棄権できるけど、山は登り始めれば自分の足で引き返すか、登り切って下山するしかない。だから、ときどき、自分が想定してた限界を思わず超えて、実はそれ以上の能力が自分に備わっていたことを発見することがある。
それが自信につながるし、面白い。同時に、本当に限界を超えてしまって命を落とすこともあるのだろう。だから、無事に下りてきたとき、そういう試練を与えてくれた自然に感謝できるし、自分を凄いと思える。50、60歳代から、そういう挑戦と成長の世界に入り、少しずつ自分を鍛えて楽しめる中高年登山愛好家には、私は素直に敬意を表したい。
■今回、お亡くなりになった方々は、新聞記事で読む限り、本当に山を愛し、経験も豊富で、「安易な中高年ツアー登山に警鐘」などという言葉を使うことすらはばかられるような人たちばかりだ。今度のルートを「難しい、それでも」と自覚する方もいたし、心配する家族に「最後にするから行かせて」とせがんで行った方もいた。きっとどなたも、そんな山を見くびる気持ちはなかっただろう。
■昨今の新聞記事は、とにかく責任の所在を探して追及するというパターンに陥りがちだ。責任の所在はここだ、誰の責任だと決めてしまえば、遺族の方たちの悲しみも多少いき場をみつけるかもしれない。ツアー料金を払っての登山参加だから、参加者の安全に万全の対策をあらかじめとっているのがツアー会社の責任、というのも正しいのだが、自然相手に万全の安全対策がとれないというのも事実で、本当は責任論だけで割り切れないものも沢山ある。
■結局、こういうニュースに接したあと、いろいろ考えて、いろいろ思いをはせて、それでも「私は山が好き。また、のぼる」とひとり、ひとりが覚悟するかどうかが、一番大事なところではないかと思う。家族に、危ないから行くな、といわれたとき、万が一のことがあっても、誰も悲しまないで、山で死ぬことは本望だから、と言い切ってでも行きたいほど、山が好きか、というところに帰ってくるのだと思う。
■だから、トレッキングツアーの参加者は、ベテランガイドがついているから絶対安心なんてことも、露ほどに思うべきではないだろうし、ツアー側も、初心者でも安心です、などと宣伝をすべきではない。「山では何が起こるかわかりません。しかしその危険を上回る魅力と出会えます」と正直に山の怖さと魅力を伝えて、ともに責任と覚悟をもって登山に参加できるツアーを選ぶこと、そういう参加メンバー、ガイドらが信頼感をきちんと醸成できるツアーを組むことが大切ではないだろうか。
■亡くなった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。そして、残された方々の心がいつの日か、癒されんことを祈ります
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