興国大津波で壊滅した十三湊のその後はどうなったか。十三湊安東氏は復旧に努めたが、その財をもってしても十三湊新城の再建は不可能であった。東から南部軍が安東氏追い落としの軍勢を進めてきている。
十三湊は流泥の中に沈み、浅瀬遠浅の水たまりと化した。さしもの栄華を誇った十三湊で残った家屋は21軒、湊は廃湊となり戻ることができない安東船は「諸国の五津七湊に居住を余儀なくす」とある。
安東氏が南部氏に追われ十三湊から蝦夷地(北海道)に敗走した記録は永享四年(1432)の満済准后日記にでてくる。室町幕府が南部氏に安東氏との和睦をすすめた記述である。満済は足利将軍・義満の側近として”黒衣の宰相”といわれた醍醐寺三宝院の門主。史料価値が高い。
蝦夷地に渡った年代については諸説があるが、一等史料として満済准后日記を推したい。
やがて安東氏は蝦夷地で力を蓄え、秋田の檜山安東氏に戻ってきている。檜山は能代市檜山の地名。能代市檜山集落の東側丘陵に「檜山安東氏城館跡(ひやまあんどうしじょうかんあと)」があって国の史跡に指定されている。
蝦夷地に渡った安東氏のことは、「函館市史」に出ている。
この時代の蝦夷地は、漁労・狩猟民族であるアイヌと、これに雑居する和人であったが、その和人も史料に見られる範囲では、京から流刑された夜討・強盗・海賊のたぐいや、奥羽の戦乱に破れて流れついた武士、あるいは航海中難破した海民や山民といった、いわばそのころの本土の社会概念からすれば、非農民的集団であった。
蝦夷地の安東氏は二年にわたり函館周辺にあって、康正二年(1456)に安東太郎政季が出羽・檜山安東氏迎えられている。出羽・檜山に赴くに当たり、政季は弟の下国八郎式部太輔家政を茂別館(上磯町茂辺地)に置き、蝦夷地支配を続けている。
康正二年の史料としては新羅之記録に「安東政季、湊尭季に呼ばれて男鹿に入り、ついで河北郡を支配する」の記述がある。
湊尭季は十三湊の安東盛季の弟。盛季の孫・義季が南部氏に攻められて自殺し、後継者に蝦夷地の政季を推したいきさつがある。
杜父魚文庫
14220 蝦夷地(函館)に渡った十三湊安東氏 古澤襄
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