今日は11月1日、10月中に信州か東北の温泉に行きたいと思っていたが果たせない。骨髄腫は身体の一部に痛みが走るが、温泉で温めていると痛みが嘘のように和らぐ。
10月は初旬から腰にチクチクと痛みが走っていた。以前は腕や手の関節に痛みが走ったが、温泉で温めていると消えてしまった。温めるだけなら自宅の風呂でもいいのではないかと、秋も深まったので連日、風呂を沸かしていたが、あまり効き目がない。。
10月25日未明に妻の実家から「お姉さんが伊豆の病院で亡くなった」と知らせてきた。ガンで通院しながら治療を受けていた義姉だったが、20日から入院して治療を受けていた。
突然の知らせで女房を6時前に駅まで送り、自分も追いかけて伊豆に行く準備をしていたらズキンと腰に痛みが走ってしばらくは立ち上がれない。ギックリ腰と似た症状だが、自分では骨髄腫の症状が出たと分かる。
伊豆には行かずにベッドで伏せるはめとなったが、午後になると痛みが和らいできた。風呂を沸かして長湯をしながら、二回も三回も自宅で温泉?治療。翌日、妻が疲れた表情で戻ってきた。
義姉は献体の登録をしていたので、伊豆の病院から浜松医科大学病院に送られた。私たちに迷惑をかけまいと思っていたのであろう。お骨が戻ってくるのは三年後だという。
割り切れない気持ちが残るが、義姉のことを思いながらパソコンを叩いている。義姉が生まれたのは昭和五年。伯父の北一輝がガラス箱に納まった人形を姪のために贈ってくれた。それを伊豆のマンションの床の間に飾ってある。
長女がマンションの片付けに行くので、義姉が大切にしていた北一輝の人形だけは私が預かろうと思っている。いつの間にか腰の痛みが和らいでいる。腰に巻いたサポーターが役に立ったのかもしれない。
■遺された北一輝の人形 古沢襄
妻の姉・凱子さんは伊豆で一人住まい。夏に愛犬チロを連れて二泊したことがある。その夜、ガラス箱に納められた人形が気になって、なかなか寝つかれなかった。何となく不気味は感じを与える。朝になって「人形が気になって眠れなかった」といったら「北の伯父さんから貰ったのよ」と姉は言った。
北一輝・・・波乱の生涯を送った人である。佐渡島で生まれ、明治三十九年(1906)に処女作『国体論及び純正社会主義』を発表、その後、宮崎滔天らの革命評論社同人と知り合い、交流を深めるようになり、中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。この経験を『支那革命外史』として出版している。
大正八年(1919)に書いた『日本改造法案大綱』は昭和維新を唱えた二・二六事件の青年将校の村中孝次、磯部浅一、栗原安秀、中橋基明らに影響を与えたと言われている。二・二六事件の理論的首謀者とされ、愛弟子の西田税とともに処刑された。
かつては右翼思想家として評価されることが多かったが、『国体論及び純正社会主義』は社会主義者の河上肇や福田徳三に賞賛されていた。
『日本改造法案大綱』はクーデターと憲法停止が特色と見られているが、それはあくまで過渡的なものであり、強権による改革の後には、社会民主主義的な政体の導入を想定していた。
こういった点は戦後のアメリカによる日本占領政策と共通する。このように北は単純な国粋主義者とは括れない側面をもっている。また、政治家の岸信介は、北の「国体論」などから強い影響を受けていたという。<ウイキペデイアを参照>
長女の凱子さんや次女の妻・恵子を産んだ母・ムツは、北一輝の従妹であった。佐渡から上京して北宅の台所を一人で切り回している。その後、ムツが結婚して長女の凱子さんが生まれた時に人形がお祝いで北一輝から贈られたという。
人形から不気味なものを感じたのは、二・二六事件で銃殺された北一輝の怨念がこもっているからではないか。処刑された青年将校たちは「天皇陛下万歳!」を叫んで銃殺されている。だが北一輝は一言も発せずに銃弾に倒れたという。(杜父魚ブログ 2006.09.07 Thursday name : kajikablog)>
杜父魚文庫
14475 義姉が大切にしていた北一輝の人形 古澤襄
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