16104 父、平林彪吾とその妻のこと   松元真

◆ 私は、父の臨終に間に合わなかった。
新富町三丁目の相馬ビルから、築地の海軍病院へ向かって、人気の絶えた電車道を走りに走った。私の手をひっぱる落合さんは、泣いていた。泣きながら、私の手を力ずくでひっぱっていた。でも、間に合わなかった。
◆ 昭和十四年四月二十八日午後九時十五分。だだっぴろい施療病棟の中ほどには、すでに囲いが立てられ、看護婦が父の鼻や口に綿をつめこんでいた。遅かったじゃないか、母は私をなじった。「兄の出征が決まり、見送りのため、留守しました」落合さんの声は小さかった。母が病院に付き添うことになり、父の親友であった落合さんが私の面倒みるため、相馬ビルのわが家に泊まりこんでいたのである。父の死顔は決して安らかではなかった。子供の目にも、無念をみとどけた記憶が、今も薄れない。病名、敗血症。享年三十七歳。アメリカで、ペニシリンが開発される寸前のことであった。
◆ 母によれば、口にあてがわれた酸素吸入器をマイクとでも思ったらしく、息をひきとる直前まで、文学について演説をしていたという。
◆ 地下の、底冷えのする霊安室に、二日間閉じこめられた。父の遺体は翌日、施療病棟入院時の条件であった解剖に回された。解剖は午前中に終わったが、当日は「天長節」に当たり、ラジオからは、終日「天長節の歌」が流れていた。日本中が、沸き立っていた。病院の係官は「天長節」を理由に、柩の搬出を許さなかった。「『天長節』せいで、家に帰れないなんて、プロレタリア作家の最後らしくっていい」口々にいいあう大人たちの会話が、当時十歳の私の耳に、こびりついたままである。夜ふけ、父の遺体はようやく自宅に戻ることが出来た。途中、歌舞伎座の前には、日章旗が夜風に揺れていた。
◆ 告別式は三十日の午後二時。せいぜい二段の木組みに、白い布をかぶせただけの祭壇。その横に、腫れぼったい顔の若い母と小学生の私が、体を寄せ合い、ちまちまと座っている一枚の写真が、今私の手許に残っている。戒名は「釋彪隆信士」。極めて短い。
<鶏飼ひのコムミュニストが当選>
◆ 相馬ビルは、当時でも珍しい鉄筋コンクリートの五階建てであった。その四階の角部屋が私たちの住居である。窓から、建設中の勝鬨橋と聖路加病院が見えた。「パパ、少し出世したんだぞ」父は、おどけてみせた。昭和十二年三月引っ越し。事実、自転車屋の二階、美容院の離れなど、銀座界隈を転々としていた私にしてみれば、突然、浮き立つような眺望が手に入ったことになる。六畳一間に押し入れと台所、便所は共同であった。
◆ 昭和十年、「文芸」の懸賞に「鶏飼ひのコムミュニスト」が当選。父は、「人民文庫」執筆グループの一人として主に同誌を中心に作品を発表していたが、以後「文芸」に「フロック」や「輸血協会」などを発表、わずかながら世に認められるようになっていた。アパートの一室では、文学青年がよくたむろして、将棋をさしたり、議論をしたりしていた。父はその喧騒の中で、机に向かっている日も珍しくなかった。居場所のない私は、大きな父の胡座の中にすっぽり抱かれていることが多く、私の耳元で、父の走らせるペンの音が軋んでいた。
◆ 生活を支えるため、母は夕方になると、身支度を整えて、銀座のカフェへ出勤した。母が出掛けたあと、夕刻を狙って父の仲間が押し掛けてくることが、まま、あった。自然、銀座に繰り出すことになるが、時には浅草まで遠出をする夜もあった。父は、母の鏡台から、生活費の一部を、拝む真似をしては持ち出した。ただでさえ大柄な体躯を小さく丸めて、私に目配せをする。たいがい私は、置いてけぼりにされたが、時にはお供をさせてもらった日もある。私の謀叛をおそれたからであろう。
◆ 私の記憶では、浅草の場合、「神谷バー」か「染太郎」、銀座では七丁目に今もある、天井の高いビヤホール。戦災の焦げ跡はそのままだが、タイルの壁画も復元され、相変わらず賑わっている。父は私にフルーツポンチを与え、食べ終わると、表の露店に花火を買いにやらせる。私は何度も、ドーム風の高い天井めがけて、打ち上げ花火をやらかし、大人たちの拍手を浴びた。父はその度に支配人に頭を下げた。鏡台からの抜きとりは、とうに時効であろう。いや、母にしても、先刻気づいていたに違いない。
<「オリムピック」の出来立てのパン>
◆ 父の作家としての評価は、年々定まってはきたが、その評価がそのまま収入にはねかえるようなご時勢ではなかった。一方で、作品そのものにも、理不尽な掣肘が加えられ、転向者が相次いだ。味噌汁の実が、たびたび、きのう食べ残したパンの耳であった、という描写が、小説「輸血協会」の一コマにあるが、この一節などはまぎれもない私小説である。父の作風の中に漂うユーモアなんぞではなかったのである。
◆ 相馬ビルに引っ越した当座は、母の体もまだ無理がきいていたが、父の文名とは反比例するかのように、体調を崩していった。机に向かう父の横で、昼間から蒲団を敷いたまま寝込む日が、次第に増えていった。母の体調のいい日、親子三人で銀ブラをし、三吉橋際にあった「グランドキネマ」で、フランス映画を何度か観た記憶はあるが、一日の細部はぼやけている。二、三回つき合わされた「望郷」だけは、ラストシーンを覚えている。それにしても、私はよく、夜中の二時頃、たたき起こされた。
つとめを終えて帰ってきた母が、店での出来事を報告、ひとしきり夫婦の時間になる。その日常に馴れた私は、煌煌とした電球の真下でも、熟睡できる術を身につけてはいた。しかし週に一、二度は、その私の肩をゆさぶり、無理やり起こすのであった。「そら、パンだ、パンだよ。『オリムピック』の、出来立てのクリームパンだよ」店で、チップでもはずまれたか、父と母のはしゃいだ笑顔が、今も生きている。また、帰るなり、母の泣き出した夜も再三あった。酔った客が胸の中に手を入れ、パットを掴み出して笑ったといい、上半身をはだけたまま母の口説がつづいた。
父はただ、「すまない」を繰り返すだけであった。貧乏はいいものだ。あの時二人は、志が一つだったのだ。何のことはない、私の役割は、さしずめ、手をとりあう父と母の、態のいいお相伴であった。おそらく、森閑とした相馬ビルの、あの無機質なしじまの中で、この小さな城だけに灯りがついていたのだ。
◆ 昭和十二年「血の値段」「女の危機」、昭和十三年「収穫のバトン」「市井の隅」「月のある庭」は、この狭い六畳間から生まれた。そして父の葬式が嘘のように存在したのも、この相馬ビル四階の一室だったのである。
<モガ・モボスタイルの写真>
◆ 父の本名は松元實、母は三嶋信子。ともに、明治三十六年生れ。結婚は昭和二年八月である。父は鹿児島県姶良郡日当山村東郷の生れで、自作農の三男。母は国分の士族の家に、三女として生まれている。父は大正十二年日本大学高等工業建築科卒業後、「詩潮」「想華輪燈」同人を経て、昭和二年には詩・評論誌「第一藝術」を主宰している。母は大正十年、鹿児島県立女子師範学校二部へ入学し、卒業後、日当山村小学校に五年間奉職した。この時、同村の松元家に下宿したことから父と知り合った。
◆ 「お見合いがいやでね。それに、私は、結婚するならこの人しかいないって、きめていたからね」
もともと、画家が志望で、こっそり女子美術学校(現女子美術大学)の受験票まで手にしていたが、父親の反対にあい、断念した母である。東京へ出たいの一点で、気脈を通じ合った二人は、駆け落ち同然に出奔。父と母は、西荻窪に新居を構えた。結婚当初、父は東京府復興局の建築技手を拝命し、関東大震災後の銀座で、区画整理事務に携わった。生活に苦労はなく、詩人の会合などにはボヘミヤンネクタイを結んで姿を現した。結婚式の写真はないが、モガ・モボスタイルをきめこんで、わざわざ写真館で撮った写真を、母は油紙に包み、長い間、仏壇の引き出しにしまいこんでいた。
◆ 結婚の翌年、父は日本大学の社会学科に籍を置きながら、「尖兵旗」同人となる。同年、中野に移転、喫茶店を開業する。私は昭和五年、当時の荏原郡で生まれた。その後、五反田、上落合などを転々、父は復興事業の功労により旭日桐花章まで貰いながら、昭和六年、大学卒業後、日本プロレタリア作家同盟に加入、文学の世界に足を踏み入れた。建築家への志を放棄し、求めて文学への道、それも、よりによってプロレタリア文学にのめりこんだのである。案の定、生活は不安定になり、困窮は日常化した。夫の文学修行のため、妻が働きに出る。昭和初期の、どこにでもころがっていたおきまりのパターンを、父と母もなぞる羽目になった。母の女給生活が始まった。
<銀座裏の自転車屋の二階>
◆ 昭和九年、父は、実名を捨て、筆名を平林彪吾とした。しかし、不遇は続いた。築地の乾物屋の二階に住むかと思えば二ヵ月後には大塚に移ってビリヤード「フロック」を開業、それに失敗するや、銀座裏に舞い戻って、木挽町は自転車屋の二階に転がりこむといった有様であった。両親が銀座にこだわったのには、理由があった。一つは、母のつとめ先が銀座のカフェだったこと、さらにいえば、作家たるもの、東京の中心に住まなくては、との、焦りに似た思いこみによるものであった。
◆ 自転車屋の二階には、ほぼ二年間住んだ。比較的、長く住んだことになる。歌舞伎座の正面を直角に入った位置にあり、窓からは、歌舞伎座の壁面に下がった「満員御礼」の垂幕が、景気よくはためくのが見えた。手の届くところに、華やぎがあった。しかし、一歩入った横丁は静まり返っていた。父は、この横丁の二階で、「文芸」懸賞を目指し、「鶏飼ひのコムミュニスト」を推敲した。
◆ 「時には、ほとんど毎朝『原稿,書き直しました』といっては持ってきましたよ」
心酔していた武田麟太郎氏の夫人留女さんの述懐である。「鶏飼ひのコムミュニスト」は、当時、茅場町に住んでいた武田さんの許に、日参して書き上げた作品である。自転車屋の二階は、いわば作家平林彪吾が独り立ちした場所だったことになる。
◆ 父の死後、母はよく私に語った。
「どうせ文学やるんなら、日本一の小説家になってくれ。それなら私も頑張る。そういってやったんだ」
その大時代的なものいいに、私自身鼻白む思いだった。しかし、美術学校への夢を親の反対で断念し、せめて第二の希望だった師範二部を卒業した母である。まがりなりにも、教壇に立った自負まで捨ててのカフェ勤めになるわけだったから、母はきっと精一杯、父に注文をつけたに違いない。
母の気負いとはうらはらに、作家として陽の当たった期間は、わずか数年に過ぎない。戦後、映画にもなった「月のある庭」を昭和十三年「文芸」に発表、ようやく新進作家の地歩を築いた矢先の急逝であった。しかも、死んだ年の一月からは、「長篇文庫」に「光ある庭」の連載を始めていた。母にしてみれば、頑張ろうにも、頑張りようがなかったことになる。
<平林彪吾の死>
◆ 父の死後、母の呆然自失がつづいた。その母に生きる力を与えたのが、父の遺稿集「月のある庭」であった。父にとって、この、たった一冊の本は、一周忌も近い昭和十五年の三月、改造社から刊行された。戦時下でもあり、よりによってプロレタリア作家の作品集が世に出ることなど、とうてい望めることではなかった。この出版が実現されるについては、いつにかかって故火野葦平さんのご尽力があったればこそ、かなえられたことであった。この本を手にした時の鼓動を、母ともども、片時も忘れたことはない。
◆ 遺稿集「月のある庭」は、装幀久保田久一氏、カット青柳喜兵衛氏、編集は故上野壮夫さんや故中山省三郎さんが当たった。「跋」として、武田麟太郎さんの「平林彪吾の文学」、火野葦平さんの「平林彪吾の思い出」、これに落合茂さん作成の年譜が添えられている。上野壮夫さんは「あとがき」を書き、次のように締めくくっている。
◆ 「一周忌をまえに、平林にとって最初にして最後の作品集の成ったことを、平林の仕事のためにその全生活を捧げ、彼の死とともに病を得ている信子夫人のために心から喜びたいと思う」
◆ 実は、遺稿集出版の話などまったく知らされていない頃、母に連れられて、折から入院中の中山省三郎さんを見舞ったことがあった。ベッドに横たわったままの中山さんが、やおら筆と硯を取り出した。「墨をすってごらん」いわれるままに墨をすり終わると、かねて用意していた半紙を私の前に置き、まずご自分で「月のある庭 平林彪吾著 改造社刊」と万年筆で書いた。
「この通り書いてごらん」私は、習字を褒められたことなど一度もない。思わず後退りした。しかし、中山さんは、執拗に「書きなさい」を繰り返す。中山さんは、笑っていらっしゃったが、母の顔は険悪になっていく。私は、渋々書いたが、緊張の余り筆先が震え、鼓動が相手に気付かれまいか、おそれた。
ところが、遺稿集を手にしてみて驚いた。扉にあたる一頁目に、見覚えのある私の字が、レイアウトに飾られて印刷されている。右下に小さく「文字 松元真」とあった。さりげなく、暖かさを表現できる人たちを、私は余り知らない。亡き友の遺稿集を出すに当たり、その息子に、扉の題字をこっそり書かせてしまうことなど、並みの優しさで出来るものではない。成人してから、この折りのお礼を、直接伝えたかったが、中山さんは、すでに早く他界されていた。この歳になっても、熱い塊がこみあげてくる。(杜父魚文庫 1985年)
杜父魚文庫

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