17730 もう一度転居するなら富山に住みたい    古澤襄

職業柄、日本全国を歩き回って行かなかったのは鳥取、島根両県だけ。住んだのも一カ所や二カ所ではない。その中で富山だけは、もう一度住んでみたいと思う。
冬の積雪だけは苦手だったが、毎朝、北アルプスの雪をいただく眺めは東京生まれの私にとって身も心も洗われる思いに包まれた。日本海の魚はみがコリッと締まっていて太平洋の暖流魚とはひと味違う。
魚津生まれの北日本編集局長氏に連られて「弁慶」という名の魚料理店で朝とれたばかりのホタルイカをご馳走になった。あぶらが乗っていて、しょうが醤油で頂いた。
この編集局長氏の父君は早稲田大学の英文学部の名物教授なのだが、ご本人は富山弁どころか魚津弁丸出しで聞く方が難渋する。「魚だけは任せておけ」といわれて、富山市内の魚料理店に連れて行ってくれた。
そして仕上げはいつもわが家で酒盛り。二人とも大酒飲みなので「立山」という地酒を二升、魚津まで帰るのは面倒というので泊まって翌朝、二人で出勤に及んだことも一度や二度ではない。
数年後、本社に戻ると編集局長氏は会議の後に必ず寄ってくれた。帰りの汽車まで一杯やろうと上野駅近くの小料理店の縄のれんをくぐるのだが、いつも汽車に乗り遅れて横浜のわが家に戻って一泊。富山県人は閉鎖的でよそ者はなかなか受け入れてくれないと聞いていたが、ひとたび相手のふところに飛び込んでしまうと交友は一生続く。
富山の女性は米騒動発祥の地だから、婦人警官のようにゴツイと聞いていたが、金沢美人の負けないくらい眉目秀麗な人も多い。請われて一年ばかり県の女性セミナー講師をしたこともある。美女に目移りして困った記憶が残る。
私のジャーナリストの振り出しは仙台。毎日新聞は入社したての女性記者を送ってきた。たちまち仙台の記者仲間の人気者となったのは言うまでもない。富山県の高岡高校から早稲田大学の政経学部を出て毎日に入社。お世辞なしの美人記者だった。それが一年でフルブライト留学に合格して私たちの前から姿を消した。
その想い出を北日本新聞の連載コラムに書いたら、女性セミナーの中に高岡高校の同窓生がいて、広島にいた彼女を富山に招いてくれた。フルブラト留学が終えて毎日外報部の紅一点として活躍していると風の噂で聞いてはいたが、帰国して広島にいるとはとは知らなかった。
富山で彼女と15年ぶりに再会したが「結婚して毎日皿を洗っているのよ」と笑う。美人だったから男が捨ててはおかないと納得する一方で、これだけの才女に皿洗いをさせて置くのは勿体ないと複雑な思いに駆られたものである。私と同年だから83歳になった筈だが、美しい老女になっていて欲しい。
魚がおいしいから、肉料理にはトンと縁がなくなった。東京にいる時は朝鮮焼き肉が好物で週に二度は新橋の朝鮮料理店に行ったものだが、富山在任中には朝鮮料理店を探しても見つからなかった。自然と肉料理よりも魚料理好きとなったが、富山の日本海でとれた魚のおいしさに較べると東京の魚の味は見劣りがする。
酒はあまり飲まなくなったが、いまでも「立山」の二級酒が一番だと思っている。東京に戻ってからも三年ほど富山の百貨店から「立山」の二級酒を取り寄せて飲んでいた。霊峰・北アルプスの想い出と重ねて飲んでいたのかもしれない。
この北アルプスの富山側登山道を切り開いたのは、私の曾祖父・為田文太郎である。文太郎が北アルプス開発道の先駆者と紹介したのは菊池今朝和(あさと)氏。私が富山や北アルプスに惹かれるのは文太郎の血がなせる技なのかもしれない。
最後に菊池氏の文章を紹介したい。
為田文太郎らが築いた路が今に至るまで登山道として、登山者に重宝されている。
松本、糸魚川を結ぶ大糸線の白馬駅に下りたつと、眼前に右から白馬岳、杓子岳、白馬鑓が岳、唐松岳、そして五竜岳と立ち並び人を圧倒する。
五竜岳と唐松岳の間に小突起がある。大黒岳である。大黒鉱山は明治39年開業だが、当初は宇奈月方面(当時宇奈月なく、無人の地で桃原といった)から黒部側沿いの厳しい小道を伝い、黒薙温泉、祖母谷温泉をへて尾根道をよじ登る南越ルートと、大黒岳へ突き上げる谷をよじ登り、大黒の尾根に出る二本松ルートがあった。
最初は南越しルートが主力のようで、文太郎も始めは富山のほうから入山したようである。
其の後、白馬村の八方地区、昔で言うと細野の一農家が定宿となっていた。横沢(文太郎の次の開発業者)の代になって登山コースであり、スキーゲレンデとなっている八方尾根に牛道が切り開かれた。今でも文太郎の築いた道も、横沢の築いた道も、名残をとどめている。
杜父魚文庫

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