岩手県の西和賀町に行くと湯川の小さな温泉旅館を定宿にしている。熱めの温泉と鄙にも稀な美人の若女将が目当てだからだ。盛岡で小学校の先生をしていた頃、若主人に見染められたという。ところが人気旅館だけに満杯。そこで別の旅館に泊まった。桑尾光太郎さんとの二人旅。桑尾さんは「学習院百年史」の編纂に加わった人だが偶然が重なった。
泊まった旅館は、湯川温泉の「万鷹旅館」。敗戦の年の昭和二十年四月十三日に学習院の目白校舎が焼夷弾の直撃を浴びて、ほぼ全焼した。残存校舎で授業を再開したが、五月二十五日の東京大空襲で、高等科の学生を農村に疎開させることになった。疎開地は長野県・軽井沢、岩手県・六原、山形県・蔵王の三カ所。
桑尾さんは「六原班が三班で一番激しい作業を予想されたので、山岳部など運動部関係の頑健な学生六十人が選ばれた」という。六原には農村の指導者を育成する県立青年道場があった。戦時中には「南の内原、北の六原」と言われて、満蒙開拓軍の青年たちを数多く養成した施設である。
ここで農村の作業教育を受けた高等科の学生たちは、和賀川の上流に位置する湯田村の草原で開墾作業に当たる。宿舎となった湯川温泉の万鷹旅館から峻険な山道を登り、開墾地まで五キロ、片道二時間もかかるので、作業に加われない学生も出たという。開墾地の位置は今となっては分からない。
開墾面積は計画で十五町歩、開墾地は放牧にも利用されていた灌木の疎林のある草原と学習院の記録に残っているが、湯田町の記録は残っていない。雑木を伐り倒し、雑草を刈りとって焼き払い、整地して馬鈴薯などを植えたという。これだけの作業は学習院の高等科の学生だけでは手におえない。六原青年道場からも七十人ほどの参加があったという。県庁もわらじ百五十足、野菜の配給など支援を惜しまなかった。
八月十五日に敗戦の玉音放送を聞くことになった。馬鈴薯や大根の収穫期に入っていたが、希望者から逐次帰京して、全員の引き揚げが終わったのは九月初旬になったという。平成元年になって、万鷹旅館に宿泊した高等科学生が集まり同窓会をやったが、その一人である共同通信社・社長の犬養康彦さんは、健在である。その頃に学習院の院長から万鷹旅館に感謝状が贈られた。
八月十六日の日付となるが、学習院高等科から東京帝国大学に進学していた作家の三島由紀夫が、万鷹旅館にいる文学仲間の後輩に激励のハガキを出していた。「国は敗れたが、これからは文学の志を高くもって頑張ろう」という趣旨だったという。このハガキは学習院に保存資料として残っているので、桑尾さんは万鷹旅館と湯田町にコピーを送る約束をしてくれた。
この話には続きがある。旅の楽しさは、その土地の珍しいお酒や食べ物との出会いである。万鷹旅館の祝宴で秋田の「天の戸」という酒が出た。湯田町で歯科医院を営む高橋義和さんが持参してきてくれた秋田の地酒。一口飲んでみて驚いた。秋田の銘酒はいろいろと試し飲みしてきたが、これほどさっぱりとして、しかもコクがある酒はみたことがない。
西和賀町議の家子さんは「天の戸の二級酒で、岩魚の骨酒(こつざけ)を作ると美味いですよ」という。それも良いのだろうが、ほどよく冷やした「天の戸」の冷酒に勝るものはないであろう。”どぶろく”の透明な上澄みの様な酒なのだが、どぶろく特有の匂いがない。原酒の中の原酒だと思った。酔いも一気にくるのではなくて、じわじわと身を包んでくる。良い酒にめぐり会えた時の喜びは、たとえようもない。
酒宴が酣となった頃、小用に立った沢内村教育長の高橋繁さん(西和賀初代町長)が「隣の部屋に海軍大将の掛け軸が下がっている」と言った。私の親族に海軍少将がいるので、興味が赴くままに海軍史を調べたことがある。海軍大将は初代の西郷従道から最後の井上成美まで七十七人しかいない。「何という名前ですか?」と聞くと繁さんは「山だったな、山形かな?」とこれもかなりメートルがあがっていて、たしかではない。
横で聞いていた桑尾さんが「山梨勝之進ではないですか?」と首を突っ込んできた。この辺りのカンの良さは相当のものである。私も繁さんも「山梨勝之進??」、正直にいって聞いたことがあるような、ないような海軍大将である。早速、掛け軸を見に隣の部屋にいった。
「永安泰常和楽」と書かれた書には「為萬鷹舘 海軍大将山梨勝之進」と署名があった。日付はない。桑尾さんによると山梨海軍大将は敗戦をはさんで学習院長の職にあって、敗戦の直前には困難をおかして学習院高等科の疎開先を巡察していたという。それで、もしや山梨海軍大将の書ではないかと思ったそうだ。多分、学生たちが世話になっている万鷹旅館にきて、請われるままに一筆をしたためたものなのだろう。
山梨海軍大将は聞いたことがあるような、ないようなというのでは、不明の誹りを受けても文句が言えない。私が調べた海軍史というのもタカが知れたことになる。雑学が好きな私は羽田元首相のオヤジ・羽田武嗣郎衆院議員のところによく遊びにいった。武嗣郎さんは長野県上田の出身、自民党では石井派という小派閥に属していた。元は朝日新聞の政治・軍事記者。米内光正海軍大臣の時に黒潮会(こくちょうかい)という海軍記者クラブにいたが、間もなく長野県から選挙に出た戦前からの代議士。
ついでのことながら、この時にやはり朝日政治部から藤井丙午さんも岐阜県から立候補したが、こちらは落選している。その息子が藤井孝男。小泉首相と総裁選挙で争って敗れた。話があちこちに飛んでしまったが、本題に戻ろう。当時の海軍は「艦隊派」と「条約派」に分かれて激しく対立していた。昭和海軍はワシントン軍縮会議(大正10-11年)ロンドン軍縮会議(昭和5年)を経て、両派の対立が決定的になる。
今日でいえば「タカ派」と「ハト派」の対立である。この歴史を聞くために元海軍記者の羽田武嗣郎さんの部屋によく通った。「君は上田中学だったね。息子は上田中学に入れなくて東京の私立に入れたのだが、大学をでても就職口がなくてね。小田急のバス会社に押し込んだのだが・・・」とコボされた。その人が総理大臣になったのだから、オヤジの武嗣郎さんも墓場で驚き、喜んでいるに違いない。
山梨勝之進はワシントン軍縮会議には加藤友三郎海軍大臣の随員として参加した。海軍大佐だったが、すでに条約派の一方の旗頭となっていた。加藤海軍大臣も山梨随員も「日米海軍戦うべからず」の信念で固まっていて、時の原敬首相も「国内は私がまとめるから、あなたはワシントンで思う存分やって下さい」と加藤らを激励している。しかしワシントン会議が開かれる前に原首相は東京駅頭でテロの凶刃に倒れている。
ロンドン会議の時には海軍大臣は財部彪、山梨勝之進は海軍次官の要職にあった。ワシントン・ロンドン軍縮会議の結論は、当時の日本の国力としては妥当な線で納まっているが、タカ派の「艦隊派」や国内の右翼は屈辱的条約として猛反発。時の浜口雄幸首相は原首相が襲われた東京駅頭で暗殺されている。さらに若槻首相の後の犬養首相も五・一五事件を起こした海軍軍人によって暗殺、僅か十年そこそこの間に三人の首相が犠牲となった。
仙台藩上士の長男として生まれた山梨勝之進は、寡黙な人柄ながら海軍部内では信望が厚く、将来の海軍大臣の器と目されていた。しかし、ハト派の「条約派」の旗頭に押し上げられたこともあって、結局は喧嘩両成敗の形で昭和八年三月に予備役に編入されて表舞台から去った。
海軍兵学校25期卒業の山梨大将から三期遅れて28期卒業の米内光政(岩手)、七期遅れて32期卒業の山本五十六(新潟)といった優れた将星が輩出したが、すでに海軍主流は末次信正大将ら「艦隊派」の握るところとなって、無謀な大東亜戦争へ突き進むことになる。海軍を去った山梨勝之進は、昭和14年10月から昭和21年10月まで学習院の院長を務め、昭和天皇の訓育にも関与し、第二次世界大戦後の天皇の「人間宣言」にも関係したといわれている。
後輩の米内光政が死去した時には、請われて葬儀委員長となった。GHQによる公職追放令が解けた後も、公職にはつかず晴耕雨読の日々を送っている。昭和42年12月17日に死去。
犬養康彦さんは「昭和20年の終戦の直後から、21年10月に安倍能成さんが院長に就任されるまで一年余りの間というのが、学習院の存続の危機の期間だったと思う。当時の山梨勝之進院長時代に、宮内大臣として石渡荘太郎さんという偉い先輩がいて、この石渡さんと山梨さんが中心になられて、学習院の歴史を護った」と回顧している。
万鷹旅館の書には、あえて学習院の院長と書かずに、消え去った日本海軍の海軍大将と書いたのは、何か特別の想いがあるように思えてならない。
33 敗戦翌日に三島由紀夫のハガキ 古沢襄
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