2890 小沢民主党代表と日米関係 古沢襄

自民党時代の小沢一郎氏はコチコチの親米派だったというと驚く人が多いだろう。政敵からは”小沢フリーメーソン”説まで流されていた。小沢氏が一番親しくしていたのは、駐日米大使のマイケル・アマコスト。保守の政治家で小沢氏ほど米政府から期待と信頼を集めた人物はいない。
1990年8月2日、フセインのイラク軍がクエートに軍事侵攻した。海部内閣の時である。前年の1989年4月27日に竹下首相はリクルート疑惑の責任をとって退陣している。竹下氏は自ら退陣と引き換えに宇野宗佑外相を総理の座に据えて、裏から宇野内閣をコントロールしようと図った。
だが一ヶ月後の参院選で自民党は大敗して宇野内閣は退陣、二度目の竹下・金丸傀儡政権として誕生したのが海部内閣。金丸信氏は、この機会をとらえて小沢氏を幹事長に据え、竹下・金丸・小沢トリオで海部内閣をコントロールする体制を敷いた。
自民党内で最小派閥だった河本派の一幹部に過ぎない海部氏だったから、小沢幹事長の剛腕がいかんなく発揮されている。人事と資金を握った小沢氏には怖いものはない。アマコストは小沢氏に接近して、湾岸戦争で日本の貢献策を探っている。日米関係は小沢・アマコストの蜜月によって大きく変わった。
その軌跡をみると小泉・ブッシュ蜜月よりも遙かに日米関係を緊密にした功績が残っている。この時期に日本は八月三〇日に多国籍軍に十億ドルの援助を決定、さらに九月十三日に追加の三十億ドルの援助を行った。米政府は日本の若き小沢幹事長に注目、太いパイプが出来上がっている。
多国籍軍がイラク攻撃の戦火を開くと1991年1月17日に海部首相は多国籍軍の断固たる支持を表明、4月にはペルシャ湾に掃海艇を派遣に踏み切っている。その勢いで国連平和協力法案を国会に上程したが、世論の猛反発を受けて廃案になった。失敗したのは、この一件だけであった。
だから米政府内では”ミスター・オザワ”の名が知れ渡り、小沢剛腕政権の待望論が生まれている。当時のことを知る米国の識者からすれば、米国と一定の距離を保とうとする今の小沢氏の変身ぶりには戸惑いを隠そうとしない。
これは経世会内における権力闘争で小沢氏が敗北した事と関係があるのではないか。具体的には小沢氏の強力な後ろ盾だった金丸氏が佐川急便疑惑で失脚したことが大きな要因となっている。
小沢氏が急速に力を持ったことに、経世会内部では小渕恵三、橋本龍太郎、梶山静六、村岡兼造、中村喜四郎、野中広務らが反小沢色を強めている。この竹下側近が小沢包囲網を敷いた。
小沢氏には羽田孜、奥田敬和、渡部恒三、熊谷弘、中西啓介らがついた。だが東京都知事選で、小沢幹事長は自民党東京都連が推す候補を退け、党中央の推す候補を擁立。この一件で東京の各選挙区から出ている鯨岡兵輔、深谷隆司、島村宣伸、与謝野馨らとの亀裂を深めた。現在、小沢氏との交友があるのは与謝野氏ぐらいであろう。
小沢氏の推す候補が都知事選で勝っていれば、経世会内部の反小沢勢力を押さえ込むことが可能であったろう。しかし都知事選で敗北し、幹事長を辞任した小沢氏は、その神通力を失った。
そうなると竹下氏の資金力には及びもつかない。小沢氏はここで自民党を離脱、新党結成という思い切った策に出ている。壊し屋・小沢の誕生である。これが成功して細川内閣の誕生をみたのだが、細川内閣、羽田内閣の瓦解によって野党に転落の憂き目をみている。
小沢氏が再び権力の座を奪還するには、旧社会党や連合という勢力を糾合して捲土重来を図るしかない。このことは、米国とは一定の距離を保つ方針転換を招く必然性を持った。あれほど強力な米政府との蜜月が、十年を越えた野党時代に失われていった。それに反比例して、師匠の田中角栄が築いた中国との人脈が太いパイプとして残った。
小沢民主党が選挙で勝利し、小沢政権が誕生すれば失われた小沢氏の日米パイプを再構築せねばならない。ヒラリー・クリントン米国務長官との会談話がもつれた背景には、この様な歴史的な経過が投影している。
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