芸者と一口にいっても、その実態をよく知らない人が多い。日本髪で着物を着て、宴会のお座敷で三味線を弾く年輩の女の人、というイメージが芸者の一般的なイメージだろう。
戦前まで芸者は花形スターだった。名妓ともなると現在のアイドル以上の扱いでブロマイドが飛ぶように売れた。都新聞(現在の東京新聞)という花柳界専門紙まで存在した、というからただごとではない。
芸者は花魁(おいらん)とは違う。花魁というのは吉原の遊郭にいた高級娼婦の事である。花魁の変形が芸者であり、芸者の一部は昭和初期にはカフェーの女給、戦後はホステスとなった。
女給やホステスには芸がない。芸者には芸がある。この一点が前者と後者を分かつ大きな違いでもある。 相撲取りが結婚する相手という点では客室乗務員とかアナウンサーも芸者の延長という人もいる。
芸者はどうやってなるものなのか。アメリカの小説家が北陸や京都に取材してハリュウッド映画にもなった「さゆり」は貧しい家の借金のカタとして売られた娘が一流の祇園芸者になる話は有名。
しかし大体は、芸者屋が同じように親に納得づくで金を払い少女を住み込みにさせ、今でいう中学生くらいの時分から芸を仕込み、14、5歳で半玉として座敷へ出す。
芸者として一人前になる時、お披露目といって、他の芸者屋へ挨拶して歩く習慣もある。16歳で一本として、初夜の客を店が選ぶ。
馬鹿にならない額の水揚げ代をとり、見込みのある妓が良い客に当たると、芸者屋ではその客に遠慮して他の客は取らせない。ただしこれには莫大な費用がかかる。
夏ともなれば、その芸者屋の妓に浴衣の一揃えも作ってやらねばならない。男は芸者を買うというより、評判を買うのである。
やがて運がいいと男(旦那)に身請けされて妾として、芸者稼業を廃業する。あるいは芸者屋の経営者になったり、三味線の師匠になったりと芸者稼業を生涯続ける人もいる。
芸者は基本的に芸者屋に住み込みだが、歳を取るとアパートなどから芸者屋に通うようになる。芸者屋の事を関西では置屋と呼ぶ。芸者は芸者屋から客の待つ待合へと出向く。
待合(宿泊も可能)には料理屋から料理が運ばれてきて、ここでお座敷を持つ。芸者屋、料理屋、待合の三つ揃った場所は三業地といわれた。現在、待合は敗戦後、進駐軍の命令で廃止され、待合と料理屋の合体した料亭というものになっている。
また花街には必ずある見番(けんばん)というのは、芸者の手当を精算、かつ三味線などのお稽古事をする場所である。お座敷には平と宴会、そして枕席がある。宴会は芸者に歌や踊りを頼む事が出来る。
また枕席というのは、寝る事である。芸者はお座敷では客の料理を食べてはいけない事になっており、客は間違っても料理を芸者に勧めてはいけない。
芸者と寝るにはどうすればよいか。2、3度、平の座敷を踏んだ後、昔だったら待合の女将に頼んで、後から枕金を支払えばよいのである。
お座敷の相場は現在、芸者1人1時間、8000円ほどで、料理は2時間の場所代込みで2万円前後、この他に女中や女将への心づけも時には必要になる事もある。
戦前の東京の花柳界(かりゅうかい)には新橋、新橋南地、芝浦、神明、霊岸島、日本橋、葭町、柳橋、向島、浅草、下谷、湯島天神、神田、神楽坂、牛込、四谷、麻布、大木戸、五反田、深川仲町、白山、駒込、新富町、向島三業、九段、赤坂、吉原仲の町、新吉原、洲崎、根岸、駒込、新宿、浅草西三業、渋谷、亀戸、大森、品川、大塚、王子、尾久、大井、大森都新地、淀橋十二社、羽田、調布、板橋、赤羽、新井、森ヶ崎、千住、府中、蒲田があった。
それでは平成に入ってからも存続している都心部の花街(いろまち)のみ。柳橋については格式の高さが祟って潰れてしまった。正確には川岸の料亭は隅田川が公害で悪臭が凄まじかった事に風情も何もなくなって不振となり、遂に平成に入ってから姿を消した。
昔は花街には芸者以外の人々が大勢、存在していた。まず箱屋。これは芸者の後ろを三味線箱を持って歩く仕事で、芸者の着付けも行った。箱なしと呼ばれる芸者は、いわゆる芸無しで、寝る専門の枕芸者の事である。
それに幇間。「たいこもち」である。これは、客におべんちゃらを言う仕事で、今現在は絶滅寸前である。また番頭、仲居などは、客からのチップだけで生活していた。
芸者のお座敷が掛らない事を、お茶を引く、という。あまり売れない芸者は、お茶を引く事だけは何としても避けるために、日頃から売れっ子芸者に何くれとなく機嫌をとってお座敷の末席に加えてもらう。
芸者の人気というものは一に泣きで決まる。要は嬉し泣き、演技力である。二に床上手、三に器量といわれていた。
売れる芸者は、たまに役者買いをする事がある。これは水商売の女性がホストに入れ揚げるのと同じで、女の方で贔屓の役者の切符を大量に買ったりなどして、金を払って男を買うのである。
歌舞伎、新派、相撲、噺家といったランクがあって、噺家や漫才師などはイカモノ食い扱いされていた。昔、歌舞伎は流行の発信地であった。さらに役者は玄人であって素人ではない。
そういう意味でも芸者と役者、相撲取り、芸人などは仲間であった。戦前は自由恋愛には厳しかったが、玄人相手の恋愛に関しては何でもありであった。
従って、銀行家夫人などが役者買いをしたり、壮年の男が芸者買いをするのは、至極当然の出来事とされていたのである。
芸者の命は着物である。稼ぎのほとんどは衣装代に消えるという。また芸者の名前は源氏名とはいわない。源氏物語からとったので源氏名というのだが、それは花魁がつける場合にのみ用いられる。
他に芸者用語には岡惚れと本惚れというのがあって、岡惚れというのは芸者が特定の客を軽い気持ちで好く事である。芸者が特定の客と恋仲になったのが評判になるのを、浮名が立つ、という。
新橋
新橋花柳界は、銀座の大通りより築地寄り、昭和通りと高速道路、新橋演舞場にはさまれた一画に存在する。柳橋滅亡の今、東京で最も格式が高いとされる新橋花柳界に、お座敷でなく接するには「東をどり」という催しが今も続いている。歌手の新橋喜代三は新橋の出。
赤坂
赤坂花柳界は、溜池山王から赤坂見附の間の、外堀通りよりTBS側に点在している。赤坂は場所柄、政治関係の客筋が多い。赤坂芸者はおっとりとした雰囲気が持ち味で、現在70人ほどの芸者衆を抱える。歌手の赤坂小梅はここの出。
芳町(葭町)
芳町花柳界は、今の住所区分では人形町の一画にあたる。芳町花柳界は衰退著しく、周辺の日本橋、柳橋花柳界の滅亡と歩調を合わせるように、現在20人ほどの芸者衆しかいない。
昔から芸の芳町と呼ばれ、客筋には大店の旦那衆がついた。旦那衆の減少が先の2大花街滅亡の原因とすれば、花街芳町がなくなるのも時間の問題かもしれない。歌手の小唄勝太郎、藤本二三吉はここの出。
浅草
浅草花柳界は浅草寺の裏手、国際通りまでのあたりに位置する。とにかく庶民的な花柳界ではあるが、存在はいたって地味。観光客向けのコースも開放している。たいこもちが現存しているのは都心ではここだけ。歌手の市丸、美ち奴はここの出。
向島
向島花柳界は、それぞれの料亭内に置屋があり、現在100人近くの芸者衆を抱える。他の都心の花柳界と違って若い芸者が多いのが特徴だが、置屋によって芸者のカラーに違いがあるのが特徴。格式はさほど高くない。
神楽坂
神楽坂花柳界は坂の中央に点在している。ここは新興花街で格式は高くない。最後の芸者歌手、神楽坂はん子はここの出。
東京の色街には公娼というものがあった。いわゆる後の赤線である。こちらは芸者とは違って本当に寝るだけが商売の女性たちが、政府公認で営業していた場所であった。
戦前には吉原、新宿、品川、千住、洲崎にあったが、救世軍の公娼廃止運動の高まりなどから、地方などでは公娼が私娼に転ずる場合も少なくなかった。
昭和21年1/15、東京での公娼は廃止され、吉原、新宿、品川、千住、八王子にあった貸座敷61軒と娼婦306人は自由の身となった。
しかし私娼は禁止されていなかったため、そのまま個人で営業をする者がほとんどであった。私娼は後の青線、政府非公認の売春窟である。戦前には亀戸と玉の井が私娼として知られ、ショートタイムのチョンと呼ばれた客と、泊まりの客とで賑わっていた。
私娼窟をチョンの間というのはこの名残りである。また、公娼制度は廃止されたが、表向きは特殊飲食業を謳った形での政府公認の売春窟は存続し、こちらは赤線と呼ばれるようになった。
こうした業者ぐるみで店で売春する女性達とは別に、街頭に立って客を引いて春をひさぐ女性達もいた。街娼である。昭和21年1/28、麹町区で夜の女18人が一斉検挙された。
この闇の女は新聞では実名で住所まで掲載され、その前身はダンサーや事務員などで本当の商売女はいなかった。うち2/3は中流以下の家庭で、同じく2/3は女学校卒業により一応の教養は身につけていた。4人が花柳病(性病)にかかり、1人は妊娠までしており、片親もしくは両親ともいない娘が大部分であった。
さらに、品川、田町、浜松町、有楽町の各駅に徘徊する夜の女300人を、警視庁は3月に入って一斉に検挙。夜の女の年齢は16歳から38歳までで、品川、相模、橘ホテルなどを利用して、春をひさいでいた。夜の女は警察でも大して恥じらいもせず、チョコレートを食いながら高笑いをするなどした。
戦後の夜の女達の中でいちばん有名なのは、ラク町のおときであろう。おときはラク町こと有楽町で200人もの夜の女を支配していたが、NHKラジオ「街頭録音」にガード下の女代表として出演。
この放送を偶然、昭和22年4/22夜にマーケットのおでん屋で耳にして、自分の余りにも荒んだ様子の声、話しぶりを初めて客観的に聞いた事でショックを受けて更生を決意したのだった。
ショックを受けたのはおとき本人だけでなく、当時のラジオ聴取者にこの放送は大変な衝撃を与え、ラク町のおときの名前は夜の女の代名詞のようになっていく。
昭和23年2/8、そんなラク町のおときこと西田時子(20)は、「街頭録音」でのラジオインタビューの相手であったNHKラジオの藤倉修一アナの家へと姿を見せた。自分が更生するきっかけを作ってくれたラジオ放送についてのお礼と事後報告も兼ねての訪問であった。
昭和22年7月にはおときは市川で事務員として働き、月給は1500円。これでも夜の女の元締時代の1日の稼ぎ以下であったという。
昭和23年1/14夜、おときは再びNHKラジオ「社会探訪」ガード下の女後日談に出演し、反響を呼んでいた。放送後、市川でもおときは有名人となり、ぞろぞろと人がついてくるようになり、マスクとメガネで変装するほどであったという。
昭和25年12月末、東京に夜の女は5000人いると推計された。うち病気持ちの割合は21.5%との数値も出た。14歳から47歳までおり、20歳前後がいちばん多く、70%は人妻であった。
これは東京で1月から10月までに検挙したのべ6764人のうち、常習の夜の女とみなされたのが4984人いた事による。最も稼いでいたのは有楽町の26歳の女性で、2年間で75万円。普通の夜の女は月に1万5000円稼ぐのが平均であった。
売春が非合法とされた後の昭和38年8/16夜、錦糸町の街娼一斉検挙で、夜の女(22)が捕まったが、この夜の女は貯金通帳4冊に900万円を貯めており、これを1日1万円のノルマを自ら課して2年10ヶ月で稼いでいた事から話題になった。
この夜の女は昭和16年、本所生まれ。11歳で酒乱の父を置いて母と家出、中卒で女工となったが、15歳の時に窃盗で捕まり、その後の売春防止法現行犯を入れると、検挙歴3回だった。
売春のきっかけは3年前に男に捨てられた事で、それから家を出て、1人暮らしを開始、3年間で1000万円を稼ぎ、アパートを買うのを目標にしていたという。
昭和35年10/1からこの貯蓄売春を開始したというが、元々は見知らぬ男にふらふら付いていって、性交したら2000円を貰えたのをヒントにしたという。
昭和38年時、錦糸町に街娼は100人いたが、昼の午後2時から立っていたのは、この夜の女だけだった。昼は化粧を地味にしており、警察も昼は取り締まらないので客の袖を自分から引くなどして、2時間3000円、1時間追加でプラス1000円で売春、旅館代は客の負担だったが、旅館から10%のリベートを受け取っていた。
昼には平均2人の客を取り、多い時は7人取っていたという。夜は化粧を派手にするが、警察に現行犯で捕まらないように決して自分から客引きをせず、泊まりで7000円を取った。
1年で320万円が貯まり、昭和38年7/1には900万円に。この2年9ヶ月で2000人と寝たが、病気は持っていないという。8/16夜は珍しく客が1人も付かなかったので、焦って客引きしてしまい捕まったという。検挙はされたものの、書類送検ですぐに釈放となっている。(2008・07・30)=資料:『誰か昭和を思わざる』
http://www.geocities.jp/showahistory/history04/33b.html
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5200 ”ラク町のおとき”と色街の昭和史 渡部亮次郎
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