7681 石川真澄さんと統一地方選挙 古沢襄

統一地方選がくると石川真澄さんのことが思い出される。七十一歳で亡くなったが、あれから七年の歳月が去ろうとしている。
一九五七年春、杜の都・仙台でジャーナリストの一年生になった時から、朝日新聞の石川氏は気になる存在だった。石川氏の方も私が作家や漫画家の一族なのに新聞界に迷い込んだ毛色が変わった男という興味があったのだろう。それで「三吉」というおでん屋でよく酒を飲んだ。
朝日は東大や早稲田が多い。石川氏は九州工業大学工学部機械工学科という、およそジャーナリストとは縁のない大学の出身であった。宮城県版に写真の短い絵解き記事を書かされていたが、その文章がとてつもなく上手い。
まだ作家志望を捨てていなかった私は、おでん屋で「君も小説を書いているの?」と聞いたことがある。”特車(戦車)のお洗だく”という絵解き記事を読んで、この男は日本では数少ない短編小説の書き手になると信じ込んだものである。
それが文化部に行かずに私と同じ政治記者になった。私は一足先に本社にあがり岸番記者になったが、石川氏も間もなく朝日政治部にきて池田番記者になっている。だが、その頃から石川氏は並の政治記者とは、どこか違う、悪くいえば斜に構えるところがあった。
一九八四年、岩波書店から「データ 戦後政治史」を発刊している。斜に構えていた筈である。ドロドロとした政治の世界から一歩距離を置いて、戦後政治史の資料をコツコツと集めて、それを選挙という物差しで分析する仕事に熱中していた。
さらに選挙に現れる日本人の政治意識の変遷をデータで追うというとてつもないことを試みていた。私たちは政治の世界はデータやコンピューターでは推し量れないと長く考えてきた。政治リーダーの個性こそが、政治を動かすと考えれば、データやコンピューターで政治分析するのは無駄な作業になる。
石川氏は政治リーダーは選挙民の動向によって動かされると考えた。その選挙民の動向はまさしくデータによって読み取れる。こういう発想を石川氏はE・H・カーの「歴史とは何か」から学んだという。「歴史では数が大切です」が石川氏の好きな言葉となった。
著作はいろいろあるが、私は最初の「データ 戦後政治史」が一番の傑作だと思う。その中で石川氏は「亥年現象」という造語を使っている。戦後の選挙データを読み解いている時に十二年に一度くる”亥年”の参院選挙で「亥年には投票率が下がり、したがって自民党の得票率も必ず下がる」法則があることを発見した。
この不可思議な現象を石川氏は次ぎにように解釈している。
①亥年の参院選は夏に決められているが、その二ヶ月前に統一地方選挙が必ずある。六年が任期の参院は半数改選だから、三年ごとに選挙がきちんと行われる。一方、地方議会は四年が任期だから普通は参院選と地方選挙が重ならない。
②参院選と地方統一選挙が重なるのは、3と4の公倍数つまりは12,24,36年目・・・になるが、この年が亥年なのである。
③国会議員の選挙運動を実際に末端で担っているのは、都道府県議会や市町村の議員と地域の世話役。これらの人たちが国会議員の選挙で走り回る動機のなかは「自分の選挙運動になる」という部分があるとみていい。
④ところが亥年には自分に関係する選挙が四月に行われてしまったから、そのあと二ヶ月ほどの参院選挙には力が入らない。この現象は自民党や保守系無所属候補に多くみられる・・・石川氏は選挙データから分析している。
この亥年現象はおおむね当たっている。底辺で選挙運動に当たる地方議員や世話役が力を抜くと保守系に投票してきた有権者の棄権率が高まるという構造になっている。
ことしの統一地方選挙は亥年ではないが、この心理が働くかぎり、夏に総選挙をしても投票率は低くなるだろう。やはり総選挙があっても秋以降、常識的にみて来年以降に持ち越すとみていい。
石川氏の分析には出てこないが、私は統一地方選挙の帰趨は、その後の衆院選に四年間は影響するとみている。その意味で統一地方選挙の各党派の消長はデータとして把握しておきたい。政党支持率も参考にはなるが、むしろ各選挙区で動く地方議員や世話役の数が決め手になる。
E・H・カーがいう「歴史では数が大切です」が、選挙という地上戦の鉄則だろうと思っている。
■石川真澄(いしかわ ますみ、1933年3月26日 – 2004年7月16日)は、日本のジャーナリスト。東京都出身。経歴 1957年、九州工業大学工学部機械工学科卒業。大学卒業後、工学系の大学出身者が分野の違うマスコミに入社するのは当時としては珍しかった中で、朝日新聞社に入社する。朝日新聞では政治部に所属し、池田勇人首相番から政界の取材を開始する。朝日ジャーナル編集部副編集長、調査研究室主任研究員などを経て、1978年に朝日新聞政治担当編集委員に就任する。1991年から朝日新聞社役員待遇。
朝日新聞社在籍中の1983年から法政大学法学部でマスコミュニケーション論の講座を持ち、1985年からは早稲田大学政治経済学部で政治学の非常勤講師を務めた。朝日新聞社退職後は新潟国際情報大学情報文化学部教授、桜美林大学大学院国際学研究科教授を歴任した。2004年7月16日に悪性胸腺腫のため71歳で死去。『戦後政治史』の加筆を行った山口二郎によれば、その序文を書きあげた2日後の死 であったという。ジャーナリストでありながらも上述のように複数の大学で教壇に立ち、また政治学者との共著も多い。職業研究者ではないが、政治ジャーナリストの中では、イエロージャーナリズムとは距離を置き、学者に近いスタンスを取った。
中道左派、革新の立場からの政治評論、分析をし、日本社会党や護憲派の研究や、自民党一党優位体制の分析を行った。政治部編集委員時代には当時闇将軍と呼ばれていた田中角栄に対する峻烈な批判特集を度々政治面で連載するなど立花隆等とともにアンチ角栄の評論家として知られ角栄や金丸等に講演や会見で時折揶揄されるほどであった。また、政治改革が議論された1990年代には、国政に民意を反映することを重視する立場から、当時の選挙制度改革で主張された小選挙区制導入には批判的であった。亥年現象と寅年現象を提唱したことでも有名。
杜父魚文庫

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