8889 広東省の王洋と重慶市の薄き来のライバル競争  宮崎正弘

中国の繁栄と発展を下支えしてきた広東省で省党委員会の全体会議開催。されど王洋書記は「GDPを公表しない」という椿事を演出。
広東モデルといわれた。広東省の経済力は中国の躍進を象徴する時代があった。
トウ小平が改革開放の迅速化を訴えた「南巡講話」は広東でなされた。二十年前である。六四天安門事件の尾を引いて、ぐったりと心理的に落ち込んでいた中国経済は、これで弾みが付いた。先に儲けたい人はうんと儲けなさいというお墨付きを「皇帝」が発令したのだから。
中国において資本主義が根付くか、どうかの実験場ともいわれたが、そもそも国の始まりが「商」(殷ともいう)。商いなら任せてくれって。
広東省は古くからの貿易港に恵まれ、くわえて香港という国際金融都市が隣接する。深せんは経済特区となって急発展し、人口三万か四万だった寂しい漁村が、いまや市内いたるところに張り巡らされた地下鉄、12月26日に開業した深せんー広州南の高速鉄道深浅は、その先の広州から武漢まで繋がった。こうして新幹線、新飛行場を誇る一千万都市に変貌した。
広州市より登録人口は多い。マンションの値段も上海並みとなった。
この地へ進出した香港、台湾、日本企業の発展ぶりをみていたアジア華僑も一斉に華南へ工場を開設し、雇用は流れ込んでくる流民を臨時にひろい、あちこちで大ブーム。それも華南は製造業のメッカとなり、はては本多と豊田が進出したことによって部品メ―カーが勢揃いした。
エンジニアの引き抜きが始まり、専門職の給与は跳ね上がる。最低賃金法も真っ先に定め、広州市はひとりあたりのGDPが10000ドルを突破し、ちょっとした家庭はフィリピンからあまさん(女中)を雇っている。これが「広東モデル」とされ、全中国の羨望の的となった。
ところがリーマンショック以後、舞台は暗転した。
金融市場に大きな陰り、輸出が振るわず工場操短、賃金未払い、大量のレイオフ。果てはあちこちにストライキ、暴動。社会不安が急速に拡大し、治安も悪化した。
広東省は製造業が強かっただけに輸出力が弱まると忽ちにして景気沈下というアキレス腱があった。
▲新型ストライキも広東型だった
その象徴的事件が仙尾市陸豊市の鳥炊村で勃発した農民の反乱だった。
これを血の弾圧ではなく、農民に大幅に譲歩することで事態を乗り切れと指示を出したのが団派のライジングスターといわれる中央政治局員、広東省党書記の王洋だった。
かれはライバルの薄き来(重慶市書記)が「毛沢東にかえれ」と富の平均化を訴える「重慶モデル」と対抗するかのように、多彩な経済主義へ船出しようとする。
鳥炊村暴動の処理は、全土の労働者からは拍手喝采で迎えられ、共産党中枢は渋い顔をした。王洋は、これで次記政治局常務委員のポストを確実にしたか、絶望的となったかは不明である。石平によれば「どちらか一方がなると経済路線が、そちらに転換したと誤解される懼れがあり、どちらともにならないか。或いは両方なるか」。
さて椿事は1月3日から開催中の「広東省共産党委員会第11回全体会議」でおきた。一万五千字もの長い長い報告書が提出されたが、これまで中国一を誇ったGDPが発表されなかったのだ。
広東省報告が、ご自慢のGDPを公表しないのは異例である。そして王洋は言った。「GDPが(中国の経済を)標準化するより、生活の質、幸福度が忖度されるべきである」と。
「生活の向上と人々の幸せの実現を目指し、これを『新広東モデル』と呼ぼう。これまでの『広東モデル』はあくまで経済の発展に主眼が置かれた『中国的社会主義市場経済』のプロセスに沿ってきたものであり、その矛盾の解決を急がなければならない」かくて広東の王洋と重慶の薄き来のふたりから目が離せない。
杜父魚文庫

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