9685 小渕元首相の十三回忌 岩見隆夫

早いもので、14日は小渕恵三元首相の十三回忌である。62歳の急死だった。いまのように政界がささくれだってくると、小渕の温和な顔が浮かぶ。もう少し長生きしていたら、と思わないではない。
2000年4月1日、小渕首相は執務室で自由党の小沢一郎党首と自・自連立の解消問題を協議したが、その夜脳梗塞(こうそく)で倒れた。昏睡(こんすい)状態に陥り、3日後に内閣総辞職、5月14日死去した。
首相執務室での最後の密談がのちのちまで問題になる。小沢は、
「そんなに長い時間じゃなかった。『(自・自・公の)連立合意が実行できないなら別れる以外にない』と言った。お互いに『残念だなあ』と。彼はもともと体が弱いんです。若い時、自民党本部で倒れたこともあった」(「90年代の証言 小沢一郎・政権奪取論」朝日新聞社・06年刊)
などと証言した。しかし、小渕側近は2人が激論を交わし、それがもとで倒れた、とみた。なにしろ、密室だから、ヤブのなかだ。
小渕と小沢は宿縁である。小渕が5歳年長、衆院議員は2期先輩、同じ2世だがすべてに対照的で、小沢は、
「小渕さんは性格的に弱くて、自分の意思をきちんと言う人じゃない。竹下(登)さんの一の子分だから。しかし、十分粘っこいです」(同)
と批評している。小渕の小沢評も聞いてみたかった。
ところで、96年の新春パーティーのあいさつで、小渕は旧経世会(竹下派)7奉行の行く末に触れ
「向こうに4人行って、こちらに3人残った。向こうは核分裂だけど、こちらは核融合だ」
と述べた。4人は旧経世会の後継者をめぐる対立から自民党を離れて新生党、新進党と渡った小沢と渡部恒三、羽田孜、奥田敬和。それが、小沢・渡部と羽田・奥田に分かれた。いまは民主党内で小沢・羽田が近く、渡部は小沢から離れ、奥田は死去。
自民党に残った小渕、橋本龍太郎、梶山静六の3人は全員他界した。思えば、92年12月の旧経世会分裂から約20年、政界は慢性的な離合集散にさらされ、いまに尾を引いている。政治の質は確実に落ちた。
橋本政権ができてまもなくの96年春、金丸信の後継会長に就いた小渕にインタビューしたことがある。
「(旧経世会が)二つに割れたのは思想、哲学の違いからではないし、やや感情のもつれ、権力闘争みたいなものもあった。
しかし、いちばん権力闘争に縁なき衆生の私が会長を引き継いでいるわけだし、私自身、小沢君や羽田君に深い憎悪や怨念(おんねん)は持っていない」
と小渕は淡々としていた。ヨリを戻せるならそれもよし、と言いたげだった。しかし、小沢はニュアンスが違う。
「表面的には竹下派内の権力闘争に見えたかもしれないが、そればかりではなかった。
金丸会長が東京佐川急便献金事件で議員辞職(92年10月)したのがきっかけだ。金丸さんに『あとは丸くやれ』と言われていたので、竹下さんに会って『最終的に小渕さんが会長でもいいけれど、いったん白紙に』と言ったが、もうだめだった。竹下さんは小渕さんがかわいいから会長にしたかったんです」(同)
と内輪もめのドロドロが目立つのだ。
いまも似たことをやっている。舞台が移り、人が入れ替わり、竹下のような仕切り役はいないが、小沢だけが変わらない。
しかし、もう打ち止めにしてほしい。国民の側には、国民のため、という実感がまるでない。小渕の政治にはその実感があった。(敬称略)
杜父魚文庫

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