雫石町の旧家に伝わる古文書に「岩持忠兵衛家本」という1591年(天正十九年)から1864年(元治元年)までの記録(写本)が現存している。書き出しは「天正十九年、此年、古大膳様、九戸左近将監御退治也、太閤秀吉公の御名代として、浅野弾正長政・蒲生飛騨守・伊井兵部少輔・長崎軍奉行として、石田治部少輔、上使ニ而御退治也」とあり、裏表紙に「寛政九丁巳歳 初旬 写之 雫石町 理右衛門義重」の署名がある。
もっとも理右衛門義重の筆跡は、写本の一部、1591年から1801年までの二百十年間で、その後の筆跡は別人のもとなっている。古澤理右衛門義重は、当時の雫石では、かなりの教養人だったようで、写本は南部根元記、九戸軍記、雫石の万用歳代記など多岐にわたっている。門弟もかかえていた。
書き出しの記述は説明が必要である。戦国大名の南部氏は甲斐源氏の流れを汲む鎌倉以来の名門で、源頼朝の奥州征伐に従って軍功を立て、論功行賞を得て、青森県八戸、三戸地方と岩手県北九戸、二戸地方を領地に与えられた。
二十五代晴継が十三歳で夭折したあと後継をめぐって甲斐源氏の流れを汲む南部信直と九戸政実が血族の争いをする。写本に出る「此年、古大膳様」は、南部信直のことである。
この争いは結局、九戸政実が敗れるが、「富また宗家を越ゆ、大望を懐いて機会をうかがう」九戸政実は、二十六代信直の支配を認めず、深刻な両者の抗争が始まった。天下統一を目前にした豊臣秀吉は、この北辺の情勢を憂慮し、小田原攻めで北条氏を滅ぼしたあと関白秀次に命じて、蒲生氏郷、浅野長政、石田三成、井伊直政ら十万の軍勢を差し向けて、九戸政実の五千の守備軍を激しく攻めたてた。天正十九年九月、九戸政実は降伏するが、その一族はことごとく斬られて、滅びるという悲劇を招いた。
南部を血で染めた凄惨なこの出来事は、「九戸政実の乱」として歴史に残ったが、九戸政実の人望を慕う家の子・郎党は東北の各地に散り、その遺徳を永く後世に伝えたと言う。
九戸政実が秀次麾下の軍勢と血みどろの戦いをした舞台は、岩手県の九戸城である。十万の軍勢を五千の手兵で激しく抵抗し、これに手こずった浅野長政は一計を案じて、政実の菩提寺・長興寺の僧侶を勧降使に立て、一族の命を助ける条件で、開城をうながした。しかし、この約束は守られず、降伏した一族は皆殺しになった。九戸城は、現在の二戸市五日市に城址が残っている。福岡城、白鳥城、宮野城とも呼ばれた。城の周囲は馬淵川、白鳥川、猫淵川に囲まれた要害の地である。
剛勇をもって聞こえた武将の九戸政実が、菩提寺の僧侶の説得に従ったのは、十一歳だった一子亀千代を想う父親の愛情だったと言う。自分の身はどのようなことになろうとも、「含める花の栄もなく徒らに散らすのは難しく・・・」と述べた。
しかし、開城とともに繰り広げられた老若男女を問わない虐殺劇を目の当たりにして、落ち延びようとした亀千代母子は、森のなかで捕らえられ無惨にも斬られて果てる。亀千代だけでなく九戸城士の子弟は、皆ことごとく殺戮され、その悲鳴は九天に響いたという。
後世の説話では、斬られたのは亀千代でない別人で、亀千代は顔に鍋墨を塗って人足風に身をやつし、無事に津軽に落ち延びたという説もある。さらに三歳の末子が岩手県南部の正法寺にかくまわれ、その後江戸に出て徳川家に仕官して、直参となり、三千石の知行を貰ったという話も伝わっている。
この北辺の悲話は、人の世のはかなさと戦いの無情さを、後の世に永く伝えることになった。
さて、十年ほど昔の話になるが、盛岡市で古書店を営んでいた友人の高橋征穂氏から「雫石町の古記録に古沢家の先祖と思われる古澤理右衛門義重のことが出ている」と一冊の本を送ってきた。昭和三十八年に雫石町教育委員会が発刊した郷土史資料「雫石歳代日記」である。
この本に雫石町の旧家に伝わる古文書・六点が収録されていた。いずれも達筆な書写本なのだが、その中の「岩持忠兵衛家本」の「万用歳代記」の裏表紙に「寛政九丁巳歳 初旬 写之 雫石町 理右衛門義重」と記してあった。
また岩持忠兵衛家には二冊本の「南部根元記」の写本が保存されていたが、その奥書に「寛政八年 写之 雫石町 古沢義重」とあって、筆跡は同一人と確認された。
さらに雫石・下久保の末永久右ヱ門には三冊本の「九戸軍記」の書写本が保存されていて、「文化七年庚申午 下久保 兵助十四歳」「滴石町 古澤理右衛門 門弟兵助」の奥書があった。
雫石町教育委員会は、これらのことから古澤理右衛門義重なる人が、寛政八年あたりから文化七年あたりまで雫石町に居住して、「南部根元記」「九戸軍記」「万用歳代記」の書写本を残したと結論付けた。
だが、古沢氏を称した人が、どういう素性のものか、なんの伝えも残っていないし、それを調べる手がかりもいまはない。また雫石町には古沢を姓とする家は戸籍上も残っていない謎の人物としている。
私は関東の常陸国から東北の檜山城(秋田県能代市)に来た多賀谷家臣・古沢助蒸の末裔とみている。この檜山城は江戸の家康の「一国一城令」によって破却され、多賀谷家臣は家禄を失い、土着して農民となっている。古沢助蒸の墓は能代市にはない。その末裔が流れ、流れて雫石の豪商・高嶋屋の庇護を受けたと考えられる。
江戸時代の雫石邑に自力で新田を開発し、やがては酒造業に手を染めて、一代で巨富を築いたのが豪商・高嶋屋である。初代の市右衛門は慶長十一年(1606)に関東の宇都宮に生まれて、雫石に移住している。
市右衛門には娘が三人いたが、家を継ぐ嗣子がなかったので、三女すてに盛岡本町近江屋市兵衛の手代の弟を養子に迎えている。近江商人の血をうけた勘十郎といった。この勘十郎の代になって、高嶋屋は大きく家業を伸ばし、盛岡藩の御用達になって藩の財政に貢献している。
高嶋屋の墓所は雫石町の曹洞宗・広養寺にあるが、壮大な構えで藩重役にも劣らないものが現存している。その傍らの木の下に古沢利右衛門・文化八年十月六日と刻まれた墓があるのを偶然、発見した。利右衛門は理右衛門のことであろう。
理右衛門義重が高嶋屋の庇護を受けていた証左は、墓に刻まれた家紋が高嶋屋と同じ「相香」紋だったことから窺うことが出来る。理右衛門義重の死後、寺子屋の門弟たちが建てた墓だろうから、高嶋屋の許しを得て、墓に「相香」紋を刻んだのであろう。あるいは高嶋屋が自ら理右衛門義重の墓を建てたのかもしれない。
理右衛門義重の墓に並んで、寄り添うように墓がもう一基ある。この墓のことは、まだ調べがついていない。先祖の足取りを追うのに十数年の歳月を費やした。物好きでなければ、やっておれない気の遠くなる探査の仕事といえる。
杜父魚文庫
10164 「九戸政実の乱」と古澤理右衛門義重の写本 古沢襄
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