<日本・ロシアフォーラム:森喜朗元首相 特別講演>◇2月28日 ホテルグランドパレス
今、(フォーラムで特別講演したイシャエフ露極東発展大臣の話を聞いていると)極東開発において日本がこれに協力しなければいけないという気持ちになった。(イシャエフ大臣の提案の)そういう素晴らしいメニューについて話し合ってきた。
実は私が2000年に首相になった時、韓国でAPECがあった。その時、昼食の時だったが、いろいろな話が出ていた。日本と韓国の間に、実は地下を通すトンネルを計画しているとの話をした。
今もその話は続行中で、日本と韓国の間で学者や専門家で議論しているテーマだ。
そしたら、プーチン大統領が手をあげて、「そんなちっぽけなトンネルはだめだよ」と。「やるなら、オホーツク海からずっと、ロシアから日本に通る地下の鉄道、トンネルを作るほうがはるかに、両国にとってもプラスになるよ」という話をその時からしている。だから、プーチン大統領も就任早々からこうしたテーマに取り組んでいると同時に、極東地域における開発の意欲はとても強いんだということを、その時から何度か話の中でうかがってきた。
この度(2013年2月)、ロシアを訪問した時に、ピュートル・ストルイピン(帝政ロシアの政治家。ニコライ2世の首相で、農業などの改革を行うとともに、極東開発の意義を説いた)の銅像に花を持っていった。
ストルイピンは100年ほど前の帝政ロシア時代の首相だった。大変力強い素晴らしい首相だったということで、プーチンさんはとてもこの方を尊敬しておられるようだ。私はその情報をうかがったから、21日、大統領とお目にかかるその日の朝、銅像に献花してまいった。大統領は非常に喜んで、私に「ありがとう」といってくださった。
つまり、プーチン大統領の極東開発の構想の根っこに、ストルイピン首相が当時言われた言葉がある。極東・シベリア地域に人がもっと住んで、そこに仕事ができて雇用の場ができる、そういう地域にしなければ、ロシアは強くならないんだと。
まさにプーチン大統領はその構想をイシャエフ大臣に託して、そしてこの極東を開発して、みんなそこに住んで快適な生活ができて雇用の場ができて、アクセスができて、そういう地域にしたい、そこから素晴らしいエネルギーを出していこうという気持ちがあるということを、私はイシャエフ大臣の話をうかがっても、一貫したロシアの政策の流れを知らされた。私の考えていることがまったく間違いではなかったなあと思った。
【訪露のきっかけ】
私は昨年の衆院選に出馬せず、政界を引退した。引退してみて、選挙のことなど考えなくていい、いちいち発言に新聞記者からうるさく言われなくてすむ、こういう人生があったんだなあということをつくづく感じて、毎日毎日がいいお天気だ、素晴らしい日々を私はすごしていた。だから、いまさら特使になってロシアに行くなんてこともそんなに私は深く考えていなかった。(故郷の)石川県の田舎に帰って、晴耕雨読とはいわないが、のんびり過ごしたいと思っていた。
私も75歳でして、日本の戸籍上からいうと後期高齢者に入った。年金受給者になった。田舎で生活するにはこれでいいのかなあと思っていた。
ところが、許せないことがいくつかある。一つは、日本とロシアという、世界における有益なパートナー、これだけの素晴らしい国・ロシアとの首脳どうしの訪問が10年間まったくないということ、こんな不思議なことがあっていいのかと。さまざまな形でロシア側からはいろいろなことが発信されている。いったい日本政府はそれについて考えないのかなあといつも思っていた。
昨年、ロシア大統領選挙の直前、プーチン首相(当時)が記者会見をいくつかの世界のメディアとなさった。そこでなさったお話の一つに、私がイルクーツクでプーチン会談をした時のその話し合い、署名が今も生きていて、そのことが日露の交渉のスタートなんだと、あえて大統領は発言していた。私はのんびり居眠りしていた時に突然、「喜朗(よしろう)、起きろ」と言われたような気がした。まずこれが最初のシグナルでもあった。
この3年間、民主党政権の間、野田・前首相、その前に鳩山、菅、そして野田と首相が代わったが、特に野田・前首相は、前原・元外相、玄葉・前外相などとともに、ロシアとの交渉を頻繁に話し合っていた。そういう中で、プーチン大統領に会った玄葉さん、野田さんの口から、大統領が私のことを非常に気にかけているという話をうけたまわった。これは、「いつまでも森よ、寝ているのかね」と。プーチン大統領はこうおっしゃったのかなと、またはっと目が覚めた。
そして(昨年のロシア大統領選で当選して)大統領の2回目のスタートになるわけだ。そしてその時の人事に私は非常に注目した。イシャエフ極東発展大臣、この方を極東開発の責任者におかれたことは、プーチン大統領の極東における考え方を反映している。イシャエフ氏は日本に対し友好的なお立場の方だ。この方を極東発展大臣としておかれたのは、ものすごく大きな日本に対するシグナルなのです。だから、私はなるほどと思った。
そして昨年12月、安倍晋三氏が首班指名で首相になった。きょうお見えのアファナシエフ・駐日ロシア大使から、私に連絡があって、安倍首相にお祝いを申し上げたい、普通の書簡ではなくて、できるだけ高いレベルの方にプーチン大統領の書簡をお持ちしたいとの話があった。
私は外務省につなごうとしたが、しかし外務省はきっと局長程度で終わるんだろうと私は今までの慣例上そう思っていたから、安倍さんに直接電話をいれたんです。しかし、外務省も頑張ってくれて、今までと違った形で、(事務方トップの)事務次官が直接大使の書簡を受けてくれた。外務省は、その時、安倍首相とプーチン大統領の間の電話会談にしましょうということを、そのまますぐセットされて、安倍首相とプーチン大統領の、電話での祝意とそれに対するお答えの電話会談が成立した。
そのこと一つみても、安倍晋三首相は、ロシアとの関係を少しでもよりよく構築していきたいという思いが私に理解できた。そういう意味で、今回、私がロシアを訪問して、プーチン大統領と安倍首相の間をしっかりつなぎとめるということが大事だと判断した。
よけいなおせっかいをしたと思う方も大勢おられるようだが、国家のために何かお役に立つことができるとするならば、安倍首相が早期にロシアへ行かれて、そのための地ならしを私がするということが、今回の訪露の最大の目的だと思って、今月21日にロシアに赴いたわけだ。
【コマツのロシア工場話とプーチン大統領】
日露関係者は、この10年間、いろんな方面で大変な努力をしている。しかし10年間、日露首脳がいっぺんも相互訪問してないという、これは非常に珍しいことだ。
プーチン大統領が今度の訪問時に明確に私に言ったのは、日露間に平和条約がないのは異常な事態だということだ。私もまさにそのとおりだと思う。しかし、両国政府は、これまで幅広い分野で努力してきたことは間違いない。
よく貿易や経済の数字が挙がるが、例えば安全保障防衛分野では、1998年に海上自衛隊の艦艇がウラジオストクを訪問して、第1回の訓練を開始して以来、日露相互訪問の形で救難の訓練をずっと継続している。こういう協力関係を継続してきて、既に昨年で13回を数えた。
ロシア進出企業数も、99年の105社から2011年には444社まで増大しているし、貿易総額も2012年は335億ドル、過去最高を記録している。特に自動車新車販売台数は約265万台、日本のブランドは45万台、17%になるそうだ。トヨタ、日産、三菱、マツダなどの工場がロシアにできている。
一番先にトヨタがサンクトペテルブルクに工場が新設する時に、プーチン大統領からも依頼があって、トヨタにお願いして、その交渉にあたったわけだが。今はすばらしい工場に発展している。
2年半前に私はヤロスラブリンという、モスクワからちょっと郊外の場所にあると聞いていたので、せいぜい東京から川崎くらいかなあと思っていたら、なんと300キロくらい離れていた。開都1000年のもっとも古い都市、モスクワは何度も敵から攻められたが、ヤロスラブリンは一度も攻められてないという、町全体が世界遺産になっているきれいな古都だ。
ここにコマツが素晴らしい工場を建てた。これもプーチン大統領のときの、コマツに対する肝いりで、坂出(当時)会長との間で話し合いが進められた。プーチンさんは、このコマツの完成式は、ぜひ開都1000年のお祝いの式典があるから、そのとき自分も出るから、その日にしてほしいということまで話があって、工事も急いで完成させた。
こんなことがあった。突然コマツから私に連絡があって、プーチンさんは式典には出られなくなったと。ついては、その1週間前に工場に行くから、見学させてほしいと当時のプーチン首相からそういう話があったということをうかがって、コマツは大慌てになった。
どういうことでそういうことになったのか少し聞いときましょうと申し上げた。僕は、プーチン大統領はなんともいえない好きなところがある。日本人の情によく似ている。なぜかというと、当時プーチンさんは首相だった。で、自分で式典に出るつもりだったようだが、1000年式には現在の大統領が出ることになったようだ。
大統領と首相が同時に出ることになるということは、日本側の意見で言うと、大統領が偉いのでしょうけど、政治的な立場とこれまでの立場をみると、間違いなくプーチンさんが上になるのでしょうね。
そこをプーチンさんが考えて、大統領が出るなら自分はそれに出るとまずいと考えたのだろう。だからといって、私が約束してコマツのオープンに出ることになっていたのに、出ないというわけにはいかないというので、1週間前に自分が工場をさっと行ってみて、コマツの大きなブルドーザーやトラクターに乗って運転までして、そういうことをしてさっとさりげなく帰る。
この、なんというか作法というか、心憎いところがある。私は式典に行ったときに、コマツの坂出さんを連れてプーチンさんのところに行って、そこでプーチンさんから坂出さんに丁重なあいさつがあった。
【安倍晋太郎元外相の写真】
こういうふうに、プーチンさんと長い付き合いだから余計そう思うのかもしれないが、感情のもち方は非常に、一見冷たそうに見える方だが、話していると、日本人に非常によく似た心根を持っているのがよくわかる。今回訪問して、実は、10年近くで、なんと16回も私はプーチンさんとお目にかかって話をしていることになる。
まあ、ぞっこん私のほうがほれこんでいるかもしれない。プーチンさんの格ははるかに私よりも上なんでしょうけど、なんか弟のようにみえてきて、久しぶりにお目にかかると、こないだからけがをしたとか病気をしたとかいうニュースが流れているが、大丈夫なんですかと、ついつい背中を少しなでてやった。
年を考えて、オートバイに乗ったり飛行機に乗ったり、はだかになって走ったりはやめなさいと言ったら、「いや、もうこんなに元気だ」と言っていた。私が触ったプーチン大統領の背中の感触はとてもやわらかくて、若々しい肉体だったなあと思っている。
脱線をしたが、プーチンさんといろいろな話をしてきた中で、一番大事なことは、安倍首相をよく知ってもらうということだ。これが1番目のスタートだ。安倍さんは私が首相の時の官房副長官をしていたので、私とプーチン大統領との公式行事の中には過去2、3回同席しているので、まったく知らないという関係ではない。
私が強調したのは、自分の父親が、いわゆる草の根の民間交流を、父親が石川県の片田舎の町長をしながらやっていた。その後ろ姿を私は見ていて、おやじのやっている偉大な仕事に触発されて、それで私もロシアへの関心を深く持つようになったわけだ。
(安倍)晋三首相も、安倍晋太郎元外相の秘書官としてお父さんのことをみてこられた。安倍元外相は5年近く外相をやっていた。その安倍元外相のテーマは「創造的外交」だった。当時は米国とソ連がイデオロギー対立の極致になっているときでもあった。お互いのミサイル防衛問題も、ソ連もテロ事件をたくさんかかえていた。米国がそれをよく理解してくれないという当時のプーチンさんの不満があることも私はよく聞いていた。それが大きく変わるわけだ。
そして、この後2000年だが、プーチン大統領はこういうことを私に話した。価値観というのは歴史とともには変化していくのだよと。現にわが国を見てほしいと。自由と民主主義を採用して、日米と同じ立場の国になったんだよということを大統領は私に強く言っていたことを今でも覚えている。
ソ連はゴルバチョフ大統領の時代を迎え、自由と民主主義の国になって大きな変化をとげるわけだ。そのゴルバチョフさんが日本に来た、1991年だったと思う。その時すでに安倍先生は病床に倒れていた。ご本人は、肝臓に石がつまったということを思っていて、私も病院で石を見せてもらったことがあるが、病魔はかなり深く進行していたことは間違いない。
で、ゴルバチョフさんが来たときには安倍先生の出番がまったくないわけです。ゴルバチョフに会う機会もまったくなかった。私は、忠臣・森喜朗としては、せっかくゴルバチョフさんがきて、その前に一生懸命努力した安倍先生が(ゴルバチョフ訪日時に)日本で会えないのはこんな悲しいことはないじゃないかと思って、私は奥様に「どのようにも取り計らうから、お会いになるような機会をつくってよろしいか」とお尋ねしたら、奥様から丁重に断られた。
「いま、安倍は外に出るような状況じゃない」と。「そうですか、残念ですね」と思って、その後数日たったら、秘書官から連絡があって、「ぜひ安倍とゴルバチョフさんを会わせてやってほしい」という話があった。
「奥様ご承知ですね」といったら、「奥様からそう森さんにお願いしてくれということです」ということで。
私はある工夫をして、衆院議長公邸の昼食会にお見えになったゴルバチョフさんを、玄関で安倍先生が待ち受けてもらう、そういうタイミングを作った。
そのときには病院から出ていて、やせおとろえていて、ずっと立っていられなかった。(現首相の)晋三君が後ろから、一生懸命支えていた。そこで私は、ゴルバチョフさんと安倍先生を引き合わせて、わずか数分だったが、しっかり握手をして分かれた。その後しばらくして安倍先生は亡くなった。私は本当に、いいことをしてあげたなあという思いになった。
そのことを晋三君が一番知っているわけだ。私はそのときの写真と、やせこけた写真を、プーチンさんに見せた。そして、このお父さんが、ロシアにかけた願い、それはまさにロシアが大きく変化して、新しい価値観を持つ国になってほしいと。安倍先生は、そういう創造的な外交というテーマを掲げた。そのおやじさんの後ろをじっとみていたのが晋三首相なんだと。
安倍首相の気持ちにはお父さんの時代、もっと言えば、岸元首相の孫という立場からしてもそういう時代から含めて、日露の問題をなんとしても自分で手がけて解決したい、こういう思いでいるんだということを、私はプーチン大統領によく話した。大統領も非常にうなずいて、しんみりと「その写真を私にくれ」と言うから差し上げてきた。(毎日)>
杜父魚文庫
11905 森喜朗元首相が語る日本とロシア 古澤襄
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