579 銀座の柳 吉田仁

  見渡せば柳桜をこきまぜて
    都ぞ春の錦なりける
いまは,この素性法師の歌にあるような,桜と妍を競った柳に春の風情を感じるという繊細な時代ではない。
銀座に柳通りという道がある。中央区役所で聞いた話では,銀座通りとまじわる狭い裏道の両側六百メートルほどに約百二十本の枝垂れ柳が街路樹として植えられているという。
剪定してからまだ充分に生長していないのか,枝葉も少ないが,ともかくこの柳通りに”銀座の柳”は生き延びていた。
しかし,”銀座の柳”といえば銀座通りの柳並木だった。この柳並木が姿を消したのは一九六八年(昭和四十三)であるらしい。
歩道の下に電線やガス管などを埋めこむための溝がつくられ,柳が充分に根を張る土がなくなってしまうのがひっこぬかれた直接の原因だといい,また,雨や風の日には柳の葉が通行人の衣服を汚したり顔や髪にさわるのも並木として嫌われた一因だともいう。
銀座通りの柳が盛んに枝を伸ばしていたころを,ぼくは知らない。東京に住むようになったときには,すでに姿を消していた。たまに銀ブラ,というより銀座の街を彷徨する機会はあっても,わずかに残る柳に目をとめることは少なかった。
そんなぼくでさえ銀座といえばすぐに柳を連想してしまうのは,あるいは西条八十の作詞で一世を風靡した流行歌の影響なのかもしれない。
 ♪昔恋しい銀座の柳
  仇な年増を誰が知ろう
  ジャズで踊ってリキュルで更けて
  明けれやダンサアのなみだあめ~
中山晋平の作曲で,唄は佐藤千夜子。SP盤のかすれたメロディーが聞こえてくるようだ。一九二九年(昭和四)六月,ビクターレコードから発売され,たちまち二十数万枚が売れたといわれる。
タイトルは「銀座の柳」ではない。「東京行進曲」という。
まぎらわしいが,同じ西条八十・中山晋平コンビで「銀座の柳」という曲が別にある。こちらは一九三二年(昭和七)の発表で,こんな歌詞だ。
 ♪植えてうれしい銀座の柳
  江戸の名残りのうすみどり~
この「銀座の柳」の歌詞を西条八十の自筆で刻んだ石碑が,銀座通りの尽きようとする場所にある。ところ番地は港区の新橋で,正確には銀座ではないのが皮肉だ。銀座通りから柳並木がとり払われたように,石碑も華やかさからは遠い隅っこに押し込められてしまった恰好である。
むかし汐留川に架かっていた新橋のたもとなのだろう,高速道路の下に二本の柳が植えられている。一本はかなり古い木だが,もう一本は新しく,ひょろひょろしている。かたわらには”銀座の柳二世”と記した立て札がある。
そばの御門通りが中央区と港区との境になっており,そこにもわずかに柳並木が植えられている。
仕事先のひとつが新橋駅のすぐそばにあるので,地下鉄有楽町線の有楽町駅か銀座一丁目駅で降りてぶらぶらと歩いていくことがある。
数寄屋橋から外堀通りをいくか,銀座通りを通ってこの「銀座の柳」の歌碑を横目にしながらいっても,せいぜい二十分ほどの距離だ。急ぎの用でもなければ,大きく迂回して築地の場外市場まで足を延ばし,うまい立ち食いのラーメンを食べたり,横丁に入り込んだりしてみることもある。
そんなある日,並木通りを歩いていて小さな歌碑に気づいた。近寄ってみると,石川啄木の歌が刻まれている。
  京橋の
  滝山町の新聞社
  灯ともし頃のいそがしさかな
かつての京橋区滝山町とは現在の銀座六丁目あたりで,そこに東京朝日新聞社があった。啄木は一九〇九年(明治四十二)三月から校正係として勤めはじめている。
  やはらかに柳あをめる
  北上の岸辺目に見ゆ
  泣けとごとくに
岩手県の旧渋民村,北上川のほとりにこの歌の碑があって,啄木の歌碑としてはいちばん古い。北上川や城下町盛岡と柳の木はよく似合う。
啄木には銀座の柳を織りこんだ歌もある。
  あさ風が電車のなかに吹き入れし
  柳のひと葉
  手にとりて見る
さわやかに歌いだした前半にひきかえ,なにか思い屈したような終わり方をしている。”じっと手を見る”啄木の姿がここにも感じられる。ふるさとから遠く隔たった東京で生活苦に泣いた啄木の若さが痛々しい。
けれど,かつてこの銀座の町を若き啄木も歩いたかと気持ちを切り替えてみれば,風情にとぼしくなった銀座彷徨も,なかなか陰翳の富んだものになる。啄木といい柳といい,銀座の繁栄にぬりこめられた陰画のひとつなのであろう。(杜父魚文庫より)

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