ロシアの良心・クズネツオフ教授
「1946年10月10日、ウラン・ウデ駅で警護兵ネムツオフは、大尉ミヤノ・シンゾウ(1919年生まれ、広島県福山市出身)を笑ったというだけの理由で射殺している」・・・これは日本側の調査報告ではない。イルクーツク大学のセルゲイ・I・クズネツオフ歴史学教授の調査報告である。
クズネツオフ教授とはイルクーツク市で1999年と2003年の二回会っている。シベリアで果てた日本人の墓地を探して、同行をお願いした。2003年には同じ車に乗って「ロシア人が抑留された日本人を調べる動機」を教えて貰った。私はクズネツオフ教授をロシアの良心と思っている。
「シベリアで抑留された日本人のことを調べたいと思ったのは、ずいぶんと以前のことです。本格的に資料収集を始めたのは、1991年頃」という。ゴルバチョフ時代になってロシア内務省の古文書保管所が公開され、ソ連時代に秘密とされてきた資料公開によってスターリンの暴虐という驚くべき事実を知った」
「それは日本人の抑留者に対する哀れみからではない」
50万人以上といわれる日本人がスターリンのラーゲリ(収容所)で苦しんでいた時に、罪なきロシア市民の数百万人がGULAG(矯正労働キャンプ管理総局)のラーゲリで消えていった。日本人のことを調べるのは、ロシア人の悲劇に近づくことではないか・・・と教授は言う。
ロシア内務省の古文書保管所の資料を読みながら、イルクーツク州とブリヤート共和国のラーゲリ跡と抑留者の埋葬地を探す教授の日々が続いている。シベリア全土に較べれば、範囲が限られたが、現地でみた抑留者の悲劇は内務省古文書保管所の資料にない生々しく凄惨なものであった。この調査には終わりがない。
教授の調査報告の一部を紹介する。
食べるものがないから軍事捕虜(ソ連側の呼称)は、伐採作業の合間をみて森に入って野草を摘むのだが、清水ヤスイチは毒野草で中毒死。野村コウイチは正体不明の草を食べて意識を失い、ブラーツク病院に送られて死亡。
タイシェットラーゲリから脱走した杉本マサトと浜崎ウメキチは警護兵によって射殺。ウランウデ駅ではミヤノ・シンゾウ大尉(福山市出身)が「笑った」だけで警護兵ネムツオフにより射殺。
ブリヤート共和国では森林伐採中に警護兵が日本人捕虜五人分のパンを盗んだのを見つけられている。引率者の大谷タキツネ曹長(徳島県出身)が抗議すると、その場で射殺。
第二シベリア鉄道の枕木の数だけ死亡
シベリアに抑留された日本兵が一番多く死んだのは第二シベリア鉄道の沿線地帯。ナチス・ドイツの機械化兵団がロシア平原に怒濤のように侵攻してきた時に、ソ連は第二シベリア鉄道のレールを外してドイツ戦車を防ぐバリケードに使っている。
敗戦後、抑留者たちは第二シベリア鉄道の復旧作業にかり出された。枕木となる木の伐採作業が、零下40度にもなる酷寒の中で休みなく行われ、食糧もないことからバタバタと抑留者が倒れている。第二シベリア鉄道の枕木の数だけ抑留者が死んだと言われている。
満州からシベリアに送られた日本兵の数は約五十七万(外務省発表)、この中、帰国者四十七万。現地での逃亡、行方不明、戦犯として中国側に引き渡された人数を含むから、正確な死亡者の数は明確でない。ソ連側資料(ソ連・東洋アカデミー)では抑留中の死亡者は六万四千という。
昭和五十年(1975)に引揚援護局は、ソ連地域の日本人死亡調査を発表した。ソ連全土における抑留者の墓地数は三百三十二カ所、埋葬人数は四万五千五百七十五人。どう少なく見積もっても一万五千人以上が不明なまま半世紀が過ぎた。
第二シベリア鉄道の沿線ではタイシェットとブラーツクの間に粗末な収容所が目白押しに建てられた。鉄道復旧を急ぐあまり、兵士が死亡するとただちに他の収容所から補充要員が優先的に送り込まれている。死亡者は沿線沿いに埋められた。そこは身の丈にもなろうかという草木が生い茂っている。2003年にタイシェットを訪れた私は、戦友たちが建てた「友よ、静かに眠れ」と書いた木の墓標をみて目頭が熱くなった。
スターリンに瞞された河野一郎
教授は1995年にラーゲリを視察した河野一郎農相についても、ロシア側資料で調べている。視察した収容所はモスクワに近いイワノボ市から28キロのところにある第四八ラーゲリ。河野は三時間半をかけて視察し「受刑者たちがよい待遇をうけているのにびっくりした」と言った。
ラーゲリを去る時に河野は「受刑者が入っているラーゲリは、私がこれまで予想していたのと違ってよかった。われわれは日本人がよい条件のもとにおかれているのに驚いた。私に対して少しも苦情の訴えがなかった。日本に帰ったら、受刑者の日本人たちがどのように暮らしているかを政府に報告する」と言い残して上機嫌だったという。
事実はスターリンの指令で飾られたショーウインドーを見学したに過ぎない。河野は体よくスターリンに瞞されたことになる。
スターリンはラーゲリの抑留者から諜報工作員になる者を養成し「政治学校」で教育している。これらのスパイ要員は特別待遇を受けた。「彼らは共産主義のスローガンを暗記し、お互いにソ連流に”同志”と呼び合った」と教授は述べている。
近衛文隆中尉の謎の死
教授は近衛文麿首相の長男・文隆氏が1953年8月8日にソ連閣僚会議議長に宛てた控訴状を発見している。<<ベリヤの犯罪行動についての最近の新聞報道をみて、私は次の結論を得た。私はソビエト司法の歪曲などベリヤの専横による犠牲者であり、存在しない事実によって有罪判決を受けた。私は1952年1月14日、国際ブルジョアジー援助の罪により監獄禁固の判決をくだされた。私の事項についての再審を申請する。>>という内容。
文隆氏は学習院中等科卒業後、外交官を目指し、周囲の反対を押し切りアメリカに留学し、ローレンスヴィル高校を卒業、プリンストン大学に学んだ。ゴルフ部長として全米1位となる。滞米中はアマチュアゴルファーとして活躍。1938年(昭和13年)に帰国し、父の秘書官となった。
1940年(昭和15年)2月に召集され、満州阿城砲兵連隊に入隊。幹部候補生に合格して陸軍中尉。ソ連に抑留されたが、労役を拒否。1955年の日ソ国交正常化交渉に際し、鳩山一郎首相の帰国要求や国内からの数十万人もの署名入りの嘆願書があったが、ソ連側は釈放を認めなかった。
1956年(昭和31年)10月29日にイヴァノヴォ州レジニェヴォ地区チェルンツィ村のイヴァノヴォ収容所(内務省第48号ラーギリ)で、動脈硬化による脳出血と急性腎炎のため死去したとされる。しかし、ソ連による暗殺説も根強くある。(この項はウイキペデイアによる)
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4753 シベリア抑留者の悲劇を忘れてはならない 古沢襄
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