<昭和32年に、当時の岸総理大臣が、アメリカのアイゼンハワー大統領と首脳会談を行う前に、日本政府が10年という期限を区切って沖縄の返還を検討するよう求める提案を準備していたことが分かりました。
日米安全保障条約の改定を最重要課題としていた岸総理大臣が、沖縄の返還にも強い意欲を持っていたことが伺えます。
昭和32年6月に、当時の岸総理大臣は就任後、初めてワシントンを訪れ、アイゼンハワー大統領と首脳会談を行いました。
外務省が30日公開した外交文書では、そのおよそ2か月前に日本政府がアメリカ側への申し入れの内容として作成した資料に、当時、アメリカの施政下にあった沖縄について「米国はすべての権利および利益を10年後に放棄する」と記され、日本政府が10年という期限を区切って沖縄の返還を検討するよう求める提案を準備していたことが分かりました。
実際に10年という期限に言及したかどうかの記述はありませんが、同時に公開された首脳会談の記録には、岸総理大臣が、沖縄の返還について、「米国の施政権が無期限であるため、日本国民は米国民の意図に不安を抱かざるをえない」と述べ、これに対して、アイゼンハワー大統領が、「侵略が起きた場合に迅速に行動しうるような立場にあることが必要だ」などと答えたことが記されています。
沖縄の返還はその後、佐藤内閣で本格的な交渉が行われ、昭和47年に実現しましたが、今回の外交文書で、それより15年前の時点で、日米安全保障条約の改定を最重要課題としていた岸総理大臣が沖縄の返還にも強い意欲を持っていたことが伺えます。
外交史が専門の筑波大学の波多野澄雄名誉教授は、「岸総理大臣は最重要課題だった日米安全保障条約の改定が実現すれば、恒久的に沖縄の基地を維持しなければならなくなり、返還の話全体が動かなくなる可能性が高いと考えたのではないか。沖縄の返還そのものが難しいとされた時期に期限を付けるという提案をしようとしたことは1つの考え方として評価できる」と話しています。(NHK)>
<東京都港区の外交史料館 外務省は30日、岸信介首相の初訪米などに関する外交記録文書のファイル92冊を東京都内の外交史料館で公開した。
それによると、岸氏は1957年6月の訪米に当たり、米国の施政権下にあった沖縄について「10年後の放棄」の要求を検討。日米安全保障条約改定の一方で、沖縄の早期返還にも就任当初から意欲を持っていたことが明らかになった。(肩書は当時)
「岸首相訪米資料」によると、政府は57年4月1日、沖縄などの領土問題に関して「対米申し入れ用メモ」を作成した。アイゼンハワー大統領との会談での発言を想定した準備資料とみられる。
この中で、岸氏は沖縄について「情勢は現在のままで推移すれば悪化していく」と懸念。その上で「領土問題解決の一案を提案したい。それは米国の施政権の行使に一定の期限を付けることだ。平和条約(サンフランシスコ講和条約)第3条に基づくすべての権利および利益を10年後に日本国のために放棄する」と提起することを検討した。
ダレス国務長官との会談に向けた事前資料にも同趣旨の内容が盛られている。
ただ、岸氏は米首脳との実際の会談で沖縄の早期返還を求めたものの、10年後の返還を提案したとの記録はない。別の文書によると、岸氏は「軍事基地として必要であるがゆえに施政権全部を委ねなければならないのは了解しがたい。施政権が無期限であるため、日本国民は米国民の意図に不安を抱かざるを得ない」と抗議するにとどまった。
米国は当時、極東でも旧ソ連や中国と対立しており、大統領は岸氏に対し、「世界赤化防止の責任はわれわれにかかっている。米国としては侵略が起きた場合に迅速に行動し得る立場にあることが必要だ」と指摘し、沖縄の現状維持を主張した。
結局、沖縄返還が実現したのは72年で、その時の首相は岸氏実弟の佐藤栄作氏だった。(時事)>
杜父魚文庫
14456 岸元首相 沖縄返還 期限付けた提案を準備 古澤襄
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