2561 昭和20年3月10日 古沢襄

昭和19年12月7日夜、母と私は特高警察に守られて東京を脱出した。開戦記念日の12月8日にB29による東京大空襲があるという流言飛語が流れたので、父が東京に残り、母の実家がある信州の上田に私が疎開することになった。
剣道師範の父は原宿署の道場で特高警察官たちに稽古をつけていた。その縁で手に入らない汽車の切符が二枚貰えた。省線(国電の旧称)は空襲で止まることがあるので、警察の車で上野駅まで送ってくれた。
満員の信越線だったので立ったまま六時間余り、上田駅に着いた時には夜が白々と明けていた。母は私を実家に送り届けると翌々日の汽車で東京にトンボ帰り。「12月8日の東京大空襲はやはり流言飛語でした」と帰京した母がハガキで知らせてくれた。
しかし昭和20年3月10日の陸軍記念日に東京大空襲があるというのは流言飛語ではなかった。3月10日は、日露戦争の奉天大会戦で日本軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領した日本軍が奉天城に入場した日。
9日の夜10時半頃、B29の二機が東京上空に飛来したが房総沖に去っていった。この頃、サイパン基地を飛びたったB29の三百四十四機もの大編隊が東京上空に近づいていた。
B29は小編隊に分かれて低空から東京の下町地帯に波状攻撃をかけてきた。絨毯爆撃といっていい。
B29のナパーム製高性能焼夷弾を使用している。投下された油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン(高温・発火式)焼夷弾は約100万発(2,000トン)という。火の手は強風に煽られて下町の市民たちに襲いかかった。死者は十万人。
3月10日の母に日記には次のように記されてある。
<B29、130機来襲。(事実は344機)本所、深川、本郷、浅草、蔵前、千住等々下町の大半は灰燼に帰す。翼賛壮年団、翼賛会、司法省、警視庁の一部、都庁も丸焼けなり。この日の罹災者150万、死傷者17万という。関東大震災以上の災害なりと聞く。>
新聞情報より早いのは警視庁の特高情報だからであろう。父は3月3日に召集令状がきて渡満の途上にあった。母は原宿の大日本赤誠会本部に残っていて、心配した原宿署の渡辺、小平、都筑刑事が交替で詰めてくれていた。かなり正確な被害情報が入手されている。
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