エミール・ザトペック・・・八十歳前後の世代ならオリンピック陸上競技選手で不滅の記録をうち立てたザトペックの雄姿を誰でも知っている。人間機関車ともいわれて、5000メートル、10000メートル、マラソンの長距離三種目で金メダルを獲得した。チェコスロバキアの人である。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で紹介しよう。
オリンピック 陸上競技
金 1948 男子10000m
金 1952 男子5000m
金 1952 男子10000m
金 1952 男子マラソン
銀 1948 男子5000m
<エミール・ザトペック(Emil Zátopek、1922年9月19日 – 2000年11月22日)は、チェコ(現役当時はチェコスロバキア)の陸上選手。ロンドンオリンピック(1948年)の10000m、ヘルシンキオリンピック(1952年)の5000m・10000m・マラソンで金メダルを獲得した。この長距離三冠の記録は今後達成する選手はいないだろうと考えられている。
顔をしかめ、喘ぎながら走るスタイルから『人間機関車』と称された。また、インターバルトレーニングの創始者としても知られている。
妻のダナ・ザトペコワも陸上競技選手で、ヘルシンキオリンピックとローマオリンピック(1960年)のやり投競技で金メダルを獲得している。
いわゆるプラハの春の際には、自由化を求める「二千語宣言」の署名者の一人となったため、続くソ連軍のチェコ侵攻のあとは国内で冷遇される日々が続いたが、1989年の民主化により復権した。>
佐藤内閣の椎名悦三郎外相時代に私は外務省の担当記者となった。通信社の記者は朝九時前には記者クラブに行って、本社からオートバイで届けられた外国通信社の記事に目を通すのが日課。ザラ紙に印刷された”刷りあがり”の通信社電報は皆が寝ている深夜に海外から送られてくる。
アメリカのAP、UP、イギリスのロイター、ソ連のタス、中国の新華社など海外通信社の記事電文は時差の関係で深夜に入電してくる。それを徹夜勤務の外信部記者が、見出し電文にサッと目を通して、必要な電文は翻訳して記事化する。
共同通信社に入社する前に半年ほど東京新聞の外報部にいた私は、海外電文を翻訳するものとばかり思っていたが、共同から翻訳電文が洪水のように流れてくるのに驚いた。結局は共同の翻訳電文に目を通すことに追われていた。
共同通信社と東京新聞の両方から合格通知を貰った私は、むしろ東京新聞に魅力を感じていた。それも東京新聞の文化部。東京新聞は都新聞といった時代から文化欄で定評があった。父・古沢元と親しい時代があった作家の田宮虎彦さんは、東京帝大を出た後、都新聞の文化部記者だった時期がある。当時の私は作家になる夢をまだ持っていた。
ところが意に反して外報部に配属。それでもいつかは華やかな海外特派員になれる夢がある。それで半年間、NHKの裏通りにある東京新聞に通った。だが、同じ外報部なら共同の方がいいと思う様になった。三月末まで東京新聞に席を置いて、四月から共同に入社した。
私のことを目にかけてくれていた磯部外報部長から「こういう勝手なことをしていたら、誰からも信用されなくなる」ときつく叱れたホロ苦い記憶が残った。その罰が当たったのか、共同では仙台支社に配属、シコシコ田舎の警察回りをするサツ記者になった。二年間の年期があけて本社に戻ったが、想像もしなかった政治部に配属。世の中は自分の思う通りにいかないと、つくづく思ったが後の祭り。
それはさておき、表題のザトペックに戻ろう。外務省の各局、各課を回って取材するのは仙台の県警取材と同じであった。宮城県警では「通信社?どこの電気屋さんだね」と嫌味を言われてくさったが、新聞を持たない通信社だから知名度はゼロに等しい。だが外務省では通信社は人気があった。それはいち早く海外電報をキャッチするからであった。
「小田島ザトペックさんはお元気ですか」とよく言われた。小田島氏は私が政治部に配属となった時の政治部長。後から知ったのだが、岩手県沢内村の出身で、何と私の遠縁に当たる。仙台支社から私を引き抜いた張本人だったと知ったのは、小田島氏が定年退社した後のことである。
その小田島氏は外務省の担当時代に海外電文の束をかかえてザトペックのごとく外務省内を駆けめぐった伝説がある。日本が占領下から独立して日が浅い頃である。外務省の在外公館も弱体だったから、海外通信社の情報は外務省にとってノドから手がでるほど欲しい。そんな時代があった。
佐藤内閣の頃は在外公館も強化され、共同を通じて海外通信社の原語電文が外務省で受信する様になったので、”刷りあがり”の効能も低下していた。それでも古手の外務官僚と雑談すると小田島氏のことがよく話題となった。小田島さんが、いつの間にか小田島ザトペック、その度に自分の取材の仕方がのんびりしていると妙な劣等感に襲われた。
小田島氏の葬儀に参列したが、地元の沢内村から北島村会議長が親族を代表してお礼の挨拶をしたのが昨日のことに様に思いだされる。生前に小田島氏は「甥が村会議長をやっていてね・・・」と言っていたが、その北島村会議長も亡くなって久しい。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
2797 小田島ザトペック 古沢襄
未分類
コメント
以前の貴コンテンツの件で恐縮です。
沢内村新町にルーツを持つ一人として興味深く拝見させていただいております。
小田島“ザトペック”さんは、新町のどこの小田島家のご出身の方ですか?
さしつかえのない範囲でお教えいただければ幸甚です。
と、申しますのは、私の父親の親族に、共同通信に奉職した方がおられたと聞いておりましたゆえです。