歴史雑誌『歴史通』7月号掲載の古森義久のレポート「我レ、ヤマモト機ヲ撃墜セリ」の最終部分を以下に紹介します。
ヤマモト機を攻撃したランフィアー大尉は当時から護衛の零戦6機がなぜ自分たちに体当たりしてでも山本長官機を守らなかったのか、という疑問を何度も述べていました。
=======
米軍当局は作戦終了後、バーバーが宇垣参謀長らが乗った二番機の陸攻三二六号機を撃墜した、と公式に認めた。二番機はP38編隊が迫りくるのを発見した時、一番機とは反対に海側へとそのまま進んでいた。
バーバーは最初の陸攻に攻撃をかけた後、零戦の攻撃をかいくぐって海上を単機で飛ぶ二番機の陸攻をみつけたのだという。
その時までに補助タンクの切り離しができなくなって戦列を離れていたホルムス中尉が、僚機のハイン中尉とともに、空中戦に加わっていた。
その二機も海上の陸攻に襲いかかった。結局、ホルムス、ハイン、バーバーと三機のP38が二番機の陸攻に銃撃を浴びせた。
陸攻はやがて海面に機首を突っこんでいった。バーバーがとどめの一撃を加えたとして殊勲者の代表となったわけだ。その陸攻に乗っていた七人のうち、宇垣参謀長、北村主計長、林操縦員の三人だけが死をまぬがれた。米側ではハイン中尉だけが空中戦で被弾し、基地には還らなかった。米側の唯一の損失となった。
ランフィアら残りのP38機はみな日本機の追撃を振り切って帰投した。米軍は作戦終了後、陸攻三機、零戦三機をそれぞれ撃墜、と公式発表した。
一方、日本側はP38二十四機が来襲したのをうち六機撃墜した、としている。実際は日本側の損失は陸攻二機のみ、零戦は六機すべてラバウルに帰投した。この種のくい違いは戦争当時の種々の状況を考えれば別にふしぎではないだろう。
再びランフィアが語る。「帰りのP38機同士の交信で私がジャングルに撃ち落とした陸攻のほかに、もう一機が海上で落とされたことを知りました。それで山本がどちらの陸攻に乗っていたにせよ、間違いなく撃墜されたわけです。急によろこびがこみあげてきて基地あてに無線で連絡しました。『コンドン少佐(作戦参謀)に〝あの男はもうホワイトハウスで降伏条件を突きつけることはできない〟とだけ伝えて下さい』と。基地への無線連絡は禁止されていました。だがうれしさのあまりそれをあえて無視したのです」
日本にとって国をあげて喪に服す悲劇は、アメリカ側には大吉報だった。
とくにパールハーバーへの奇襲の総責任者を討つということが、当時のアメリカ軍の若い将校にとってどれほどかがやかしい戦功だと感じられたか、想像に難くない。
ブーゲンビル上空の戦闘での日本側の迎撃について、ランフィアは当時もいまも、ひとつだけどうしてもわからないことがあるという。
それは護衛の零戦がすぐ目の前で連合艦隊司令長官が撃墜されそうなのに、なぜP38に体当たりしてそれを阻止しなかったか、という疑問だというのだ。
「私が先頭の陸攻に立ち向かった時、まず襲って来たのは零戦です。私がだれを撃とうとしているのか彼らは十分わかっていた。そして私のP38に体当たりすれば私を殺すことができたのです。阻止できたのです。技術的にそれはわりに簡単だった。連合艦隊司令長官が目の前で撃墜されて、その後から護衛役だった戦闘機パイロットが基地に帰投して報告をする。その時のパイロットの心境がどんなものか、私は何度も考えました。自分たちの最高の上官を死体のまま、現地のジャングルに残して無傷で帰ってくる。私だったらそうはしなかったでしょう」
六人のパイロットはたしかにみな無事にラバウルに帰投している。だが終戦までにはそのうちの五人までが戦死してしまった。
もし零戦の一機がランフィア機に体当たりしていたら……たしかに山本長官の運命は変わっていたかも知れない。
ランフィアらはガダルカナル島のヘンダーソン基地へ、意気揚々と帰還した。この戦争でのアメリカ側にとって標的ナンバーワンを、至難の作戦の末にあざやかに撃ち倒したのである。
勝利の帰投だった。午前十一時四十二分だった。四時間半ほどのフライトだったわけである。山本機撃墜の報は公式には抑えられていたものの、基地のみんながなにが起きたかを知っていた。
基地中がランフィアらの帰還を見つめていた。その中には後に大統領となる若き海軍中尉ジョン・ケネディの姿もあった。
ランフィアは肩をたたかれ、手を握られながら人垣の中をもみくちゃになって抜け、司令部のテントへと歩いた。
かつての飛行訓練の上官ビセリオ少佐が近寄ってきて、大きなコップになみなみと入った牛乳をくれた。ミルクは最前線では最も貴重な飲み物である。
ランフィアは詳細に戦闘状況を報告した。報告が終わるころソロモン群島航空部隊司令官のマーク・ミッチャー少将が来て、パイロットたちの労をねぎらいバーボン・ウィスキーを一箱、寄贈した。
その後にガダルカナル島の陸軍第二五師団長のジョー・コリンズ少将が現われ、昼食用にステーキと竹の子をふんだんに提供する、と告げた。
パイロットたちはやがて司令部から宿舎へともどった。その日の午後、ランフィアらはウィスキーを飲み、みなしたたかに酔った。
ただしこの時点で山本長官が二機の陸攻のうちいずれの機上にあったか、アメリカ側では確認はできていなかった。
だがまた日本側通信の傍受によってすぐに山本の死や、彼がジャングルに墜ちた陸攻に乗っていたことを確実に知るわけである。
アメリカ軍当局はトーマス・ランフィア大尉が山本五十六長官機を撃墜したことを戦争が終わるまで公式には発表しなかった。アメリカ側が日本の暗号を解読していることを絶対にさとられないための配慮からだった。ランフィア自身はこの作戦の後すぐにヨーロッパ戦線へと配転となったが、ヘンダーソン基地の航空司令部は次の日曜日の朝にもP38編隊を同じようにブーゲンビル島近くまで飛ばした。
またその次の日曜にも同様にした。
四月十八日の作戦がとくに普通とは変わらないP38編隊出撃だと日本側に思わせるための擬装である。ランフィアの弟チャーリーが日本軍にその後、間もなく捕虜になったことも、公表を遅らせる理由となった。
海兵隊のパイロットだったチャーリーは一九四三年春にたまたま南太平洋戦線に配属された。ヘンダーソン基地でしばらくは兄と一緒だった。
が、その年の八月二十八日、F4U戦闘機十二機編隊の一員としてカヒリの日本軍基地を攻撃した。一回、二回と爆撃を繰り返し、三回目に急降下して機銃掃射をつづけた時に、日本軍の対空砲火が機体に命中した。
パラシュートで無事に脱出したものの、日本軍の捕虜となった。そしてラバウルの収容所へ入れられる。米軍としては、山本機を撃墜したランフィアの名を公表すると、日本側がチャーリー・ランフィアになんらかの報復措置をとるかも知れない、と恐れたわけである。
だが軍内部ではランフィア大尉の山本撃墜をだれもが知っていた。その後すぐに欧州戦線へ配属され、イギリスに着いた時もすでに、基地の将兵たちから「あれが太平洋でヤマモトを撃ったランフィア大尉だ」といっせいに注視された。
とくにパイロット仲間ではヒーロー扱いだった。ランフィア自身もその名声を傷つけたくないとう意識から精一杯、軍務にはげんだ。終戦後ランフィアはただちに除隊する。
アイダホ州のアイダホ・デーリー・ステーツマンという地方新聞で一九四五年から五〇年まで記者、編集者として働いた。歴戦のパイロットからはドラマティックな職の変化だった。
その後ランフィアは初代の空軍長官スチュアート・サイミントンに認められ、民間人として長官の特別補佐官となった。ホワイトハウスや国防総省の国際安全保障関係のポストをいくつか経た末、六三年には兵器メーカーのレイセオン社副社長となった。
つづいて六五年にはインターナショナル・ビジネス・エクスチェンジ、七〇年にはラピドエア・フレイトといういずれも航空輸送会社の会長に就任している。七五年ごろからは半分以上、引退という生活に入ったという。ただしランフィアの体験談には後日の複雑な展開があった。
米軍当局は当初から「山本五十六機を撃墜したのはトーマス・ランフィア大尉である」と公式の判定を下していた。
ところがランフィアの僚機パイロットのレックス・バーバーも自分の銃撃こそが山本機を撃墜したのだと報告していた。その報告を支持する関係者も米軍内に出てきた。
その結果、軍当局は一九七八年には功労はランフィア、バーバーによる二等分という判断をくだした。その後、一九九〇年代になって、バーバー銃撃命中説がさらに推進された。だがランフィア自身はこうした論議に直接、さらされることはほとんどなく、一九八八年に癌で逝っていた。
私とのインタビューでは彼はどの機の銃撃が山本機を墜としたのかをめぐる議論については「目撃者の報告がくい違うのはむしろ当然だろう」と述べていた。
入り乱れた空中戦、しかも参加者は高スピードで空を飛び、その視野は時にはまったくさえぎられる。実際にその戦闘に加わった人間ならば、だれの語る目撃談もウソとはいえないだろう、というのだった。
とにかくトーマス・ランフィアが山本五十六機攻撃の第一線での指揮をとり、山本編隊に果敢な攻撃を浴びせた事実はどうにも否定できないということだろう。(終わり)
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
5872 山本五十六機を零戦はなぜ守れなかったのか――米軍パイロットの回想(完) 古森義久
古森義久
コメント