作家の童門冬二さんが興味ある指摘をしていた。日本に牛や馬が入ってきたのは、朝鮮半島からだという仮説に立って、平野部が多い新羅や百済は牛が主に使われていた。逆に山岳部が多い高麗では馬が使われていたという。
京都から西の一帯では牛が生活の中心だったのは、新羅や百済の影響だというのである。平安時代の貴族は牛車を使っている。
一方、東北は”奥州駒”の名の通り、馬が生活の中心だったから、馬の飼育が盛んに行われた。大正末期に没落したわが家も、屋内で人間と馬が同居するくらい馬を大切にしていた。高麗の祖地である満州から、大陸交易で馬を輸入した歴史がある。
養老二年(718)に出羽国と渡島(おしま 今の北海道)から蝦夷八十七人が、千頭の馬を朝廷に献上したという史書があるが、奈良時代には全国に軍馬や駅馬を飼育する官営の牧場が作られている。牛に較べてスピードが速い馬に朝廷が関心を持ち、貴族たちも争って奥州駒を求める風潮が高まった。
青森県の八戸の地名は有名だが、この戸(へ)がついた地名は一戸から九戸まである。戸は牧場に意味。馬産は江戸時代になって各藩が、藩財政を潤すために奨励したが、南部藩の支配下にあった西和賀・沢内でも村長にあたる村肝入(むらきもいり)の下に二人の馬肝入(うまきもいり)を正式な役職として置いている。
馬肝入は、村の旧家か富裕な農家があたり、村内の産馬の管理・監督につとめている。古沢家の古記録に三代古沢屋善兵衛が馬肝入になっていた文化十四年(1817)に鬼柳黒沢通りの馬肝入から、「鬼柳村の文平が鹿毛駒八歳が見失ったが発見した」というお知らせ状が届いたとある。
明和六年(1769)には馬持ちが、その馬を小作人に貸し与えて、飼育を任せる”馬小作”の制度も作られている。冬には二メートルを越す大雪で陸の孤島と化す西和賀・沢内でも馬産が盛んに行われたのは、南部藩はじめ東北の各藩が馬産に力を入れていたことを示している。
いまでは馬を飼育する農家はない。馬の代わりにマイカーが登場して、過疎の村を走っている。
杜父魚文庫
10157 馬の東北、牛の関西 古沢襄
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