18104 本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様    古澤襄

佐渡には一度行くつもりでいたが果たせない。北一輝・昤吉兄弟の母リクのことを現地で調べるつもりだった。一緒に行く約束だった義姉・凱子さんも一昨年11月に亡くなった。
リクは佐渡新穂村(にいぼ)の本間家の出。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」と唄われた山形県の本間家は日本一の大地主で知られるが佐渡本間家の分家である。
この本間家は武蔵七党横山党海老名氏流、関東の出で、本間の名は相模国愛甲郡依知郷本間に由来している。鎌倉時代の初期に佐渡国守護となった大佛氏(執権北条氏の支流)の守護代として佐渡に渡った。
上杉謙信の養子・景勝は軍船を連ねて佐渡討伐を行い、抵抗した本間家の武将たちは、佐渡平定後、土着して農民となっている。中には、いち早く景勝側についた本間支族もいた。 天正17年(1589)のことである。
だが関ヶ原の合戦で石田三成側に立った景勝は、合戦には加わらなかったが、家康によって越後百二十万石から会津三十万石に転封の憂き目にあっている。
家康によって会津三十万石に飛ばされた上杉家のその後については研究者が多いし、北一輝の研究書もあまたあるので素人の私があれこれ言っても始まらない。
私が興味を持ったのは、佐渡を支配した本間一族の興亡史と平成の世まで連綿と続いているリクの末裔の物語である。それを書けるのは、おそらく私しかいないであろう。偶然のことだが、北一輝の従妹・ムツの次女を妻に迎えたので、血族との交流があったのが幸いした。
さて、本論に戻るが、リクの実家の本間家は佐渡の新穂村にある。新穂・本間家は五か村を支配した本間支族であって、本間備前守を称した。
本間総本家の右馬充能忠が守護職で河原田城を築いた。末裔は代々「山城入道」と称して、その一族が佐渡を支配している。分かっているだけで本間二十二家がある。
嫡流の河原田・本間家はじめ七家が城持ち。城といっても中世の山城に館を築いたものであろう。
リクには同じ本間家の出である妹がいた。妹は佐渡の素封家で本間一族である浦本家に嫁している。長男は貫一(故人・両津市の弁護士)は佐渡の実力者。長女は新穂村の素封家・大蔵家に嫁した。
その長男は大蔵敏彦(清水市の弁護士、島田えん罪事件を担当)、長女は貞子(俳優・丹波哲郎の亡妻)を産んでいた。しかし妹は次女ムツを産んで、産後の肥立ちが悪く若くして急死している。
そこでムツは新穂村の浦本家(両津市の浦本家と同族)に養女に出された。養女といっても本間家との血族だから大切に扱われ、当時としては珍しい佐渡高等女学校を卒業している。
リクの系譜をたどると、弟の本間一松は佐渡随一の理論家といわれ新潟県議となった。リクのいとこは佐渡政友会の闘将・高橋亀吉。
一方、リクが嫁した北慶太郎は地方ならどこにもいる酒造家。佐渡湊町屈指の分限者の生まれで、初代両津町長を務めているが、思想家・北一輝に与えた影響はほとんど認められない。
やはり政治的な影響力はリクの血筋、二・二六事件に連座した北一輝の憲兵隊調書の陳述を読むと、父親・慶太郎についてはほとんど触れていないが、母親・リクに対する敬慕の念が滲みでていることでも分かる。
リクは北一輝が幼い頃から、寝物語で承久の乱で佐渡に流された順徳帝や日野資朝の悲劇を語って聞かせている。
正中の変(1324)に際して、後醍醐天皇の側近公家だった日野資朝権中納言が鎌倉幕府に捕らえられ佐渡に流罪となった。元弘の変(1331)で後醍醐天皇は隠岐に配流の身となるが、日野資朝は佐渡で斬首の刑に処せられている。
日野資朝には一子・阿新丸(くまわかまる)がいた。十三歳だった阿新丸は父にひとめ会おうと佐渡に渡ったが、対面が許されなかった。リクはこの物語を、幼少の北一輝に繰り返し教えている。北一輝の象徴天皇制論はリクの影響である。
本間家の出であることを誇りとしていたリクは、同時に尊皇の志を持った”ゴッド・マザー”だったから、北一輝に与えた影響力は大きいと私はみている。
北一輝は明治四十四年に間淵ヤス(スズ)という女性を知って、大正五年に入籍している。ヤスの前身が水商売(娼婦)だったことから、リクからは好まれていない。
革命家・北一輝はヤスの前身のことなどは問題にしていない。教養もなく、朝から首まで水白粉を塗って、家事を顧みないヤスであったが、その巫女的な異能に惹かれていたという。巫女的な異能と北一輝の組み合わせは、北一輝の思想の難解さを解くひとつのカギといえる。
上京した北一輝は東京・千駄ヶ谷から牛込納戸町に居を移した。財閥系からの献金があったといわれている。牛込納戸町の北邸は庭が広い大邸宅であった。そこで間淵ヤスを嫌ったリクは姪のムツに白羽の矢を立てて、北邸の家事を差配させることを思いつく。
牛込納戸町には三人の女中さんがいたというから、高等女学校をでて日が浅い二十歳のムツにとっては、大変なお役目だったのだろうが、東京の生活は魅力的であった。牛込納戸町には千客万来、秩父宮や岸信介氏も訪れている。
ムツはここで当時としては珍しいマヨネーズの作り方を出入りの業者から教えて貰った。ムツが北一輝の従妹と知って、業者側も懇切丁寧な教え方だったから、結婚後もムツの家庭では自作のマヨネーズだったという。
二・二六事件に連座し処刑された北一輝は、戦前は国賊とみなされ親族たちは東京でも佐渡でもあまり話したがらない。戦後になっても他人には重い口を開かない傾向がある。
北一輝は昭和二十年に明治憲法下の最後の大赦令で青天白日の身となった。親族たちもようやく重い口を開くようになったというが、やはり親族間の会話と他人との会話には大きな違いがある。
私自身が北一輝とは何の関係もないから、ムツの長女だった義姉・凱子さんの助けを借りて、佐渡・本間家の興亡史を探索するつもりでいた。凱子さんが亡くなったので、佐渡に行くこともなくなったと、いまは思っている。
二人の娘と孫には佐渡・本間家の血が流れてはいるが、正月に来た娘たちや東大生の孫にも、あえて話をしていない。いつの日か父親のブログを読むこともあるだろう。
杜父魚文庫

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