敗戦の八ヶ月前に信州・上田に疎開した私は、昭和21年夏に上京して廃墟となった東京を見た。旧制中学の三年生の時である。住み慣れた東京・牛込にまず足を運んだが、よく行った神楽坂が焼野原。坂の上から省線の飯田橋駅まで何もない。
東京で生まれ東京で育った私の故郷は跡形もなく消え去っていた。俳優の勝新太郎と同じクラスで学んだ愛日小学校も焼け落ちたままであった。勝新太郎は神楽坂から愛日小学校に通学してきていたが彼の家もなかった。
私の家は牛込区払方町にあったが、街角の床屋さんがバラック建てで営業していた。そこで散髪して貰い、空襲の模様を聞くことができた。逃げ遅れた知人のお祖母さんが焼け死んだ悲惨な話を聞いて、悄然として信州に戻った記憶が鮮明に残る。
だが私にとって故郷である東京で強かに生きるしかない。中学の四年生を終了して東京の都立第四中学に転校、学制改革で都立第四中学は新制度の都立第四高校、やがて戸山高校に名称が変わった。
勉強に専念することよりも食べていくことが先に立った。ヨット鉛筆の専務の家に住み込みの家庭教師になり、二人の小学生を教えながら戸山高校に通った。あまり悲壮感はない。上野駅の地下道で戦災孤児がボロを着てアメリカ兵の靴磨きをしていたことに較べれば恵まれた環境にあると自分に言い聞かせた。
あのまま家庭教師を続けて大学を出れば、ヨット鉛筆に就職できると言われたが、専務の家の台所で若い女中さんと二人で朝晩の食事をする生活よりも、そこを飛び出して冒険をする気持ちに駆られた。
自分で辞典の出版社である平凡社のアルバイトを捜し、夜は週に二回の家庭教師の口を二カ所探して、住み込みの家庭教師をやめた。おかげで大学を卒業するのに七年もかかったが、自ら選んだ道だから後悔はなかった。
就職難のご時世だったから、しっかり教員免状を取って高校教師になるつもりでいた。たまたまマスコミの入社試験を受けたら、東京新聞社と共同通信社、それに小学館に採用された。迷ったが共同通信社を選び、結局は定年まで禄をはむことになった。
後戻りが出来ない人生だが後悔はしていない。一人で放り出されても強かに生きる術を身につけたと思っている。ただ一人の孫は麻布中学の三年生になっている。来年は麻布高校の一年生になる。
芥川賞作家の辺見庸が孫の名付け親になってくれたが、名のごとく竜の様に太く、逞しく成長して欲しいと願いながら、同時に一人で放り出されても強かに生きる術を身につけて欲しいと思っている。間違ってもひ弱な青年にはなって欲しくない。
骨髄腫に冒されている私だから、いつまで生きれるか定かではないが、敗戦の廃墟から生き伸びてきた執念だけは、生きているかぎり持ち続けたい。昭和ヒトケタ世代に共通する思いなのではないか。その執念があるかぎり日本は滅びないと妙な感慨を持つ今日この頃である。
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3143 昭和ヒトケタ世代の執念 古沢襄
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