13069 政治より鉱山事業の方が面白い   古澤襄

明日のいま頃は東北新幹線の中にいる。あと小一時間もすれば北上川を渡り北上駅に着く。仙台から親族の女性が乗ってくるので話に夢中となっているかもしれない。北上駅には繁さん(前西和賀町長)と定信さん(前西和賀副町長)の二人が迎えにきてくれている。
繁さんも定信さんも無類の歴史好き。定信さんは昨年一月に「黄金の道 秀衡街道」という小冊子をまとめた。平泉の藤原三代栄華を築いた黄金文化は、平泉から北上市和賀町を通り西和賀町を経て横手市大鳥町に至る80キロの”黄金の道”があったと実証してみせた。
この発端は高橋克彦さんの「炎立つ」のNHK大河ドラマで「鷲の巣金山」が上空から撮影されて衝撃を受けたことによる。地域の「秀衡街道探査会」が作られて七年の歳月を経て九〇〇年昔の秀衡街道の探査が行われた。
そんな話を車座になって酒を酌み交わしながらやっていると時の経つのも忘れてしまう。
今度はもう少し生臭い話をすることにしている。
幕末から明治にかけて沢内通りで急激に力をつけた為田家のことを調べたいと思っている。明治22年の市町村制施行によって為田文太郎が沢内村の初代村長になった。29歳の時である。明治26年まで村長の職にあった。
私の祖母は文太郎の次女(明治21年生まれ)、長女(明治13年生まれ)は朝日新聞OBの為田英一郎氏(元ソウル、ワシントン特派員)の祖母。身内の話だから「少し生臭い」とお断りしてある。
疑問があったのは、幕末・明治の激動期に万延元年生まれで29歳の若い村長が誕生した謎である。祖母トヨは「為田家は村でただ一人、墓に院殿がついている殿様。古澤家は院・居士しかつかない」と、さも古澤家に嫁したことを嘆いていた。だけど為田の殿様が沢内城の支配者だった話は聞いたことがない。
ひとつの謎が解けたのは、文太郎の父・安太(天保6年生まれ)が、明治15年の西和賀郡資産報告で「新町村資産5000円」でトップになっていた。村一の土地持ち、山持ち、カネ持ちだったから、息子の文太郎を村長にすることにカネを惜しまなかったのであろう。
明治17年の沢内村村会議員に定員六名のうち為田安太、北島市十郎、北島忠蔵の三人が顔を出している。為田、北島両家は一族だから、五年も前から文太郎村長の準備をしていたことになる。
しかし為田安太が何故、そのような分限者になったのだろうか。そもそも為田家は、北島家から出た分家筋でしかない。北島家は正徳6年の「清十郎の母」なる最古の墓を持つ旧家。1716年のことだから、300年の歴史を持っている。私が共同通信社の政治部に配属された時の政治部長は”岩手牛”のあだ名がつく小田島房志さんだった。
「実は君とは親戚なんだよ」とうち明けられたのは小田島さんが退職した後だった。この湯田町の小田島家も北島家の一族。小田島さんによると、江戸期には長男が分家して一家を為して本家を助ける風習があったという。
「為田家の隆盛は北島家の長男で、文太郎の祖父に当たる為田治太郎(新町村肝入・嘉永4年に沢内通御給人)が傑物だったからだよ」と小田島さんが絵解きをしてくれた。
しかし為田治太郎の事績はいまとなっては知る由もない。わずかに盛岡藩覚書きに「嘉永2年11月25日 沢内通新町村・治太郎 不仕付高、前郷村二五石一斗一升七合御免地に被下置苗字刀相免」とあるだけである。北島姓から為田姓の苗字を名乗り、苗字帯刀を許されたということであろうか。
それが嘉永四年に士族である”沢内通御給人”となったということなのか。しかし、治太郎は村や盛岡藩の役職に就くことよりも新田開発や鉱山事業に興味を持っていた。時代の変化を読みとっていたのではないか。明治に入って酒造業会社まで設立している。
治太郎の性格は孫の文太郎にも受け継がれた。村長を辞めた後は、東京・四谷に居を定めて、北アルプスで銅山の開発に熱中している。後藤新平から「政治家にならないか」と勧められたが「鉱山事業の方が面白い」と断っている。
杜父魚文庫

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