146 遠祖・桓武天皇は眉唾 古沢襄

久しぶりに下妻周辺を散策してきた。この地にあった戦国大名の多賀谷氏は、家康によって滅ぼされたので、史実の裏付けとなる資料が乏しい。だが、私にとっては古沢家のルーツにかかわりがある土地柄なので、この十年余り閑があると鬼怒川東岸の下妻市や、西岸の八千代町(町村合併で下妻市に編入)を訪れてきた。
そのうちに城主だった多賀谷氏にも興味をもった。栄枯盛衰は世の習いというが滅びた者に惹かれる癖がある。多賀谷氏に惹かれたのも、そのせいであろうか。
多賀谷氏の出自を随分と調べてみたが諸説があって定まらない。「多賀谷系図」では遠祖を桓武天皇としているが、これは眉唾もの。武州(埼玉県)騎西町多賀谷郷の出であるが、この地は結城氏の所領であった。多賀谷氏に関する同時代史料が、ほとんど無いので、一揆衆の頭領から結城家臣となり、家老職まで登りつめたのだろうとみている。
桓武平氏は多賀谷氏が頭角を現すにつれて、ハクをつけるために意図的に系図を作ったのだろう。実際には多賀谷政朝に子がなかったので、結城満広の子・満義を養子に迎えて、この系譜が続いた。
いうなら多賀谷氏も結城氏と同じ秀郷流藤原氏の支族といえる。多賀谷満義の長男・彦太郎は、結城合戦で父とともに奮戦して、ともに壮烈な討ち死をしている。弟の彦次郎は、三歳の結城成朝を抱いて城を脱出し、結城再興に尽くした。
多賀谷氏家(彦次郎)が鎌倉公方から下妻庄を与えられたのは、結城再興に尽くした功績が認められた恩賞といわれている。だが、大宝城にあった飯沼親範は下妻の地を去ろうとしなかった。氏家はやむなく親範を誅殺している。
このことが影響したのであろう。氏家は大宝城には入らず、大宝沼の湖岸に新たな城を築いた。小高い台地に築いた下妻城は、北と東が大湖に囲まれ、その水を堀割に導きいれて、要塞化した。昭和三十年代まで、その面影を残していたが、下妻市の市街化事業によって、ほとんどが姿を消している。今では絵図面で下妻城を偲ぶしかない。
旧八千代町の土豪に赤松氏がいた。この赤松氏が多賀谷氏に仕え、戦功を立てて古沢姓を名乗っている。下妻城の近くに古沢邑という湿地帯がある。現在の下妻市古沢である。この地を多賀谷氏から拝領した赤松系古沢氏は、多賀谷氏の滅亡後、多くは土着したが、一部は佐竹氏の出羽転封に従って、秋田県の能代城まで行っている。能代で土着した支族が岩手県の雫石邑から峠を越えて、山間の沢内邑に移住し、この地で三百年の刻んだことまでは分かっている。

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